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毒と薬(大学受験講師・化学 節田佑介)

暗い日常とN予備

 気がつくと,スマホの「N予備」アプリを開いて、フォーラムを確認するのが日課になりました(もちろん、ネット上の怪しげな情報を巡回することの一環ではないか、と言われると否定できませんが)。フォーラムで質問したり、質問に答えてくれていたり、暴言を吐いたり、他の先生方が授業告知をされているのを見て、みんながんばってるな~と他人事のように思えるのが、また日常的です。
 日常というのは、良い出来事、悪い出来事、イライラする出来事、つまらない出来事に彩られた(どちらかというと暗い)ものです。かと言って、暗い日々だからといって、排他的になったり、攻撃的になったりしてよいわけでも、する必要もなく、みんなご陽気に過ごしてくれれば、世界も少しは平和になるのではないかと思います。世界で起こっている暗い出来事も、N予備で起こる暗い出来事も、▼の上の方と下の方くらいの差で、同じようなものです。N予備で明るい出来事があったら、(最近、量子コンピューターによって否定されたという話も聞きますが、)バタフライ効果によって、世界も明るくなるかもしれません。

節田先生_記事中ショット


うっかり暗くなる日々


 「暗い日常」は日々のことですが、「つまらない日常」というものがあるかどうかについては疑問です。「つまらない人の日々」はあるかもしれません。10年位前に、MDラジカセを拾いました。深夜だったので、うっかり拾って帰りました。ただ、壊れたラジカセを拾っても仕方がないので、深夜ながらも動作確認をしました(翌日、沖縄に行ってベストフレンドの小林くんに会う約束があったためです)。ラジカセの電源を入れると、中に入ったままだったMDが出てきました。若い人は知らないと思いますが、MDというCDとカセットの中間のようなものは、電源が入っていないと取り出せないので、電源を切ってしまうと、よく入れっぱなしになったものです。皆さんは、拾ったラジカセにMDが入っていたらどうしますか? それは当然、聞いてみるしかないですよね。「えぇ…(困惑)」という曲ばかりだったりしたら、そっと元の場所に戻しに行かねばなりませんから。その時の私は、深夜、一人、部屋で、電気もつけずに、誰が捨てたかわからないラジカセの中に入っていたMDを聞いてみたのです。MDには直書きで「Rocco」と書いてあったことも興味を引かれたかもしれません。ラジカセからは、女性の比較的軽快なリズミカルな歌唱が流れてきました。とりあえず、一安心です(また深夜に出かける必要がなくなったので)。その夜は、「Rocco」の歌をMD一周終わるまで聞いていましたが、図らずも、知っている曲が一つもありませんでした。ヒトは探究心の生き物ですから、今度は「Rocco」とは何者か?という疑念によって、もう一周MDを聞いているうちに、すっかり夜が明けて、私は沖縄に行かなければなりません。ですが、沖縄にはベストフレンドの小林くんがいます。ヒトが集まれば文殊の知恵、知識と経験が倍加すれば、解決できなかった問題も解決できるというものです。受験生が予備校に通う理由の一つは、一人で解決できなかったことが、講師、友人と向かい合うことで解決できてしまうことが往々にしてあるためです。つまり、解決できない=能力不足、ではなく、解決できない=解決するための何かが足りない、だけなわけです。「わたし勉強できないんです~」という声もよく聞きますが、今、「できない」のは事実であっても、「根本的な能力不足」「未来永劫一生かかってもできない」のかどうかは、判断できないということです。ともあれ、私と小林くんの知識と経験をもって翌日一日中あーだこーだ言っても、「Rocco」の正体はわからなかったわけです。なにせ、このネット時代に「Rocco」の検索ヒット数が数件なんですよ。これはもうムリゲーです。諦めることもできるわけです、人生とは諦めの連続です。諦めることは悪いことではなく、戦略的撤退です。もっと言えば、都合の悪いことから目を背けて逃げることです。それのどこが悪いことか、都合の悪いことに向き合って病んでもしょうがありません、困ったときは別方向に向けて全力ダッシュです。当時の私も諦めようとしました、「小林くん、じゃあMDは置いていくから、調べておいてよ。」(丸投げ)、「いやちょっと待ってください、まだ諦めるのは早いですよ!」(引き止め)、「でも帰りの飛行機の時間が・・・」(言い訳)、「ネットに情報は少なくとも、絶対にファンはいます!ファンの行動力を甘く見てはいけません!全歌詞検索ですよ!」(キラキラ)。そして、私たちは残りの滞在時間を「Rocco」のMDの中で、一番売れていそうな曲を推測し、その曲をいちいち初めに戻しては延々と聞いて歌詞を書き出しました。そして、それをもう一度ネット検索にかけたのです。ヒットしました!それは「ROCO」の「Sunny Day」でした。。。「書き間違いかよ!」 小さなミスからゴールが見つからないことも人生には多々あります。それが人生という名の日常です。
 人生という名の日常を振り返れば、インドの地名も分からない場所に無一文で放り出されたり(人生最大の危機)、ガンジス川(という名の泥川)で泳いだり、イランでうっかりパスポート取られたまま旅を続けていたら日本に帰れなくなりそうになったり、沖縄の「大人の保育園」で身の危険を感じたりと、うっかりすることの連続です。うっかりしそうなことを見つけられない人は、「つまらない人」かもしれません。ですが、日常は皆に平等に訪れているので、見逃さないことが大事です。見逃さないということは、いつも見るようにする、ということです。


理系とN予備


 理科は、物理の内藤先生と生物の森田先生と、化学(・地学)の私の3人で、「あーしましょ、こーしましょ。」と言いながら、毎年方針を決めて進めています。理系ですから、何より大事なのは、「自分でやる」ことです。知識としての情報や出来事を多角的に見る・評価するような科目であれば、「人の話を聞いたり」「本を読んだりする」ことが重要になってきますが、理系の人はまず自分の足で立ち、自分の頭で考えることができるようにならなければなりません。投げっぱなしな側面もあるので、「1から100まで手トリ足トリ教えてほしいですー」という声もあると思いますが、いやいや、甘えるな。学習とは厳しいものです。必要な人、好きな人がやればよいのです。私たちN予備理科チームは、君たちが「独り立ち」できるようなアプローチを考えています。


毒と薬


 「毒にも薬にもならない」というのは、すべての物質に共通です。量が少ないんですよ、量が。量が少ないと閾値を超えないので感じない、ある程度で良いくらい、摂り過ぎると身体に悪い、ということです。「毒」と言われるのは、身体に悪いラインが少量ということです(だから、その手前だったら毒じゃあない、という意見にも一考の価値はあります)。「薬」といわれるもの、「日常的なもの」であっても、摂り過ぎれば身体に悪いです(たとえば、砂糖や食塩、アルコールですね)。ただまあ、学習ですからね、少な過ぎて効かないよりは、過剰な方が良いのですのよ、何でも多い方が。ご存じ、私の授業のモットーは「過剰な愛」ですから。過剰なことまで言ったりやったりするかもしれませんが、摂取するかしないかは自己判断、目の前に出された「過剰のもの」をどれだけ自分のモノにするかは自己判断、選択です。摂り過ぎはよくないですよ、でも少な過ぎるよりは過剰な方がいい。選択肢がある方が人生はいいものです。私も放言の多い人間ですが、大丈夫、その内容について「愛」があるからです。愛があればね、何を言ってもいいんです(放言)。


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