見出し画像

「甘えるな」は思考の怠惰から生まれる

「甘え」とはなにか?

『甘えの構造』の著者である土居健郎によると、「甘え」に該当する言葉は他言語にはないらしい。

辞書には以下のように書いてある。

1 かわいがってもらおうとして、まとわりついたり物をねだったりする。甘ったれる。「子供が親に—・える」
2 相手の好意に遠慮なくよりかかる。また、なれ親しんでわがままに振る舞う。甘ったれる。「お言葉に—・えてお借りします」

デジタル大辞泉(小学館)

この説明では不十分だろう。

たとえば以下のような昔からよく目にする使用文脈では、上記の意味を当てはめてもピンとこない。

「うつは甘えだ」

「デブは甘えだ」

「〇〇ができないのは甘えだ」


僕が思うに「甘え」という言葉は「努力不足」や「なまけ」と同義で使われることが多い。

たいていの場合、それで前後の文章との整合性がとれる。

前置きがやや長くなったが、この前提を踏まえて持論を展開していこう。


「甘えるな」に対する違和感


「甘えるな」という言葉には昔から違和感がある。

というのも僕の場合、人から褒められることほど努力しておらず、逆に人から貶されることほど努力していたからだ。

では具体的になにを褒められ、なにを貶されたのか?

おそらく人によって不快に感じる部分もあると思うが、後の論理展開のために必要な部分なので我慢してほしい。


褒められたこと


まず勉強は比較的できるほうだった。

塾には通っておらず、授業もあまり聴いていなかったが、テストの1、2日前から勉強すればたいてい90点以上は取れていた。


次によく褒められたのが絵である。

クラスの代表作品にたびたび選ばれ、地域のコンクール的なものにも何度か出展されたが、美術の時間以外で絵を描いたことはほぼなかった。


中学生の頃にやっていた囲碁は人生で一番褒められたかもしれない。

始めて半年ほどで日本棋院で三段の段位を取得し、プロの方からも異例の成長スピードだと驚かれた。

しかし努力したという感覚はまったくなく、ただ楽しんで打っているだけだった。


貶されたこと


一方で運動はまったくできない。

運動センスは間違いなく学年最下位レベルだった。

バレーではどんな球でもコート外に弾き飛ばしてしまうため、僕のところにボールを落とせば必ず点数が入る。

僕のいるチームにだけ「ゴール」が生まれるのだ。

テニスでは昔スクールに2年ほど通っていたにもかかわらず空振りの連発で、テニス未経験者のクラスメイトに5分で追い抜かれた。

徒競走では小学校6年生のときに100m25秒という伝説級の記録も残している。


発声も苦手だ。

昔から声が通らず、声変わり以降は高い声も出せなかった。

さまざまなトレーニング法を4年ほど実践したものの、一向に声は大きくならないし高い声も出ない。

発声に関する本は20冊以上持っており、巷に広まっているトレーニング法はどれも一通り試している。

半年ほどボイストレーニングに通っていた時期もあるが、結局ただ金をドブに捨てただけだった。

どもり癖もまったく治らない。


一番困る場面が多いのが食事だ。

ぼくは給食の9割を不味く感じる特殊な味覚を持っている。

偏食は甘えとよく言われるが、給食を喜んで食べる児童は我慢して美味しいフリをしているのだろうか?

もともと給食が嫌いだったのを努力によって克服したのだろうか?

そうではないだろう。

多くの児童はそもそも嫌いな食べ物が数種類しか存在しないのである。


(僕が口に入れた瞬間吐いてしまう)餃子もピザもオムライスも肉まんも、美味しいから食べるのであって、努力して食べているわけではないだろう。

喉が燃えるような痛みを我慢して炭酸を飲んでいるわけではないだろう。

涙を流しながら2時間かけてチャーハンを食べたり、何度もえずきながらシチューを食べたりなどしないだろう。


僕は食に関しては他人より努力してきた自信がある。

だが実際に克服できた食べ物は数えるほどで、ほかは何十回チャレンジしてもダメだった。

口に入れた瞬間、生理的に吐き気を催すのだからどうしようもない。


視覚や聴覚の異常を「甘え」とみなす人間などほとんどいないのに、味覚の異常に関しては多くの人間が「甘え」とみなすのは奇妙な話である。


努力の量と結果は必ずしも比例しない


以上のように、人より秀でているものに関してはこれといった努力をしておらず、逆に人一倍努力したものは人並みにすら到達しなかった。

そして努力の量と世間からの評価は完全に反比例していた。

おそらくこれは僕だけじゃないだろう。


たとえば「デブは甘え」というよく耳にするセリフで考えてみる。

小学校で体重の軽い児童を集め、以下のような質問を教師がひとりひとりに投げかける場面を想像してみてほしい。

「あなたは努力して痩せたのですか?」

おそらくほとんどの児童が首を横に振る。

もともと太りにくい体質だったり、食が細かったり、おかずの量が少ない家庭だったりというのが彼らが痩せている理由の大半だ。

ほかの児童より甘えていないから、自分を律する力が強いから、という理由で痩せている児童はまずいないに違いない。

これは「運動ができる子」や「声が通る子」を集めても同じような結果になるだろう。


甘えているのは誰?


以上のように、結果から努力量は推し量れない。

したがって結果しか知りようがない他人に対し「甘えるな」という言葉を浴びせるのは極めて短絡的な行為なのである。

言い換えるならそれは思考の怠惰であり、甘やかしているのはむしろ「甘え」という言葉を安易に使用する者の脳みそに他ならない。

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?