見出し画像

世の中が退屈になったんじゃなくて自分が退屈な人間になったんじゃないの?

大晦日の夜。
スマホでテレビ番組表をチェックしていた。

「今年の大晦日もつまらない番組ばかりだな」

そんなことをボヤきながらテレビをつける。文句を言いつつも、なんだかんだで年末のお祭り気分を味わいたいのだろう。

友人のいない僕が年末のお祭り気分を味わうには、結局テレビを見る以外によい方法がないのだ。


テレビをつけると『エンタの神様』という芸人のネタ見せ番組をやっていた。この番組は2003年から2010年まで毎週土曜日の22時に放送されていて、学生時代によく見ていた記憶がある。

あれから約15年。今ではお笑い番組をほとんど見なくなった。たまに見る機会があっても、好きな芸人のネタだけ見る程度だ。

ここ最近はネタ番組に限らず、ごく一部のお気に入りタレントが出演している番組しか見ていない。(昔からそこまでテレビを見るほうではなかったが)


今年の『エンタの神様』にはあまり興味のない芸人が多数出ていた。ふだんならチャンネルを変える。もしくはテレビを見ずに別のことをやっている。

だがその日は年に一度のお祭り感を楽しみたかったので、そのまま見続けることにした。


「この人たち、こんなに面白かったのか」

そう思わせたのは、それまでまったく評価していなかった芸人だ。それも一組ではなく何組もいた。きっと今まで真剣に見ようとしていなかったのだろう。思えば僕の好きなものは大学時代からほとんど更新されていない。

芸人だけでなく音楽もそうだ。いま聴いている音楽の9割は学生時代に聴いていたアーティストの作品で、それ以降に追加されたアーティストはほんの一握りしかない。

良質なコンテンツが生まれていないのではなく、僕の好奇心や感受性がかつてより失われているのだ。そして失われていることにすら気づいていないのである。


これはあらゆる分野で同じことが言えるだろう。

日頃から真剣に見ることなく切り捨ててしまっているものは世の中に沢山ある。しかもたいていの場合、よく見てもいないのに見た気になっている。

つまらなくなったのは世の中ではなく、歳を重ねるにつれ、見る前から物事を判断することが多くなった自分自身なのかもしれない。

床の一輪ざしの花を見て、これと同じ花が自然に咲いている時、このようによく見ただろうかと、私は考えてみることがある。一輪だけ切り離して、花立に入れ、床に置いて、はじめて花をよく見る。

『美しい日本の私』川端康成

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?