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はじめましてのストーリー

 はじめましての自己紹介兼ねて。

 僕は41歳妻有り、子持ち。現在は山梨県の甲州市と言う所で、いわゆる有害鳥獣駆除で捕獲された鹿を加工して、ワンコのおやつを作っている。
 なので、調べればどこのどいつかわかるだろうが、ペンネームと言うのも自分の心地が良いので、あえて本名は記載しない。

 僕の生まれは北海道、育ちは都内の田舎・日野。土方歳三の生地である。
 6歳の時に、親の転勤で日野に住む事になり、18歳の高校卒業まで住んでいた。高校は都心部のそこそこいい学校が受かっていたにも関わらず、男女別学という理由と、通勤通学ラッシュが嫌だからと、偏差値がそこから10以上も下がる高校へ通勤ラッシュとは反対方面の学校へ行く事にした。そこが山梨の端っこ上野原にある高校。僕の山梨との関わりの始まりだった。
 高校では途中まではラグビー一筋、そこそこ認められるところまでいったが、肩の靭帯を切り、そこで僕の集中力も切れた。切れたと同時に根っからのクソガキが顔を出し、まぁそこからクズ街道まっしぐらであった。
 卒業後は18歳で家を出て、静岡県の三島市にある大学へ行った。またしても理由は田舎の方が良いからというのと、家を出たかったというのが一番の理由だ。とはいえ、家を出ると言っても親の脛をかじっていた訳だが…

 まぁ子供の頃の僕といえば、一言で言うならただのクソガキだった。いやクズのクソガキだった。
 小学校ではいじめっ子。中高生では酒タバコ、大学生ともなれば、飲む打つ買う。基本的に短気で喧嘩っ早く、生まれつきのガタイの良さと、人相の悪さで、何かというと、強さを誇示し、人を威嚇し、恐怖に貶めた。文章というのは後々まで残るものだから後で後悔することまでは書かない。文章の大切さを教えてくれたのは母親だ。即ち書けない事もやってきた。まぁようは典型的なヤンキー・チンピラにもなれない度胸無しのクズだったであろう。

 とはいえ、自分で言うのもなんだが、覚えも容量も悪い方ではない。給料が良いからとパチンコ屋のアルバイトに精を出し、それなりに学生バイトの割にはお給料を頂いていた。仕送り、バイト代でも結構な遊べるお金があったはずだが、それでも飲む打つ買うに事足りず、借金200万を作ってまで遊び呆けていた。
 そんな訳で大学も1年留年し就職なんていうのも普通のサラリーマンには全く興味がなく、給料の良いパチンコ業界や、学がなくても根性だけで…一発逆転みたいな商品先物取引の会社ばかりを受けた。ただでさえ不人気な業界、ちょうどパチンコ業界は大卒を採用し始めた頃、機械もいじれる、ホールも回せる、シフトも組める、それはそれは学生ながらに何度も接待を受けた。いま思えば本当に生意気であったであろう。
 その頃はなんせ飲む打つ買うの中でも、打つが好き。パチンコなんて小銭より、一発逆転狙いたい!そんな思いで、みんなの静止を無視して先物業界へ飛び込んだ。

 就職してからは、容量の良さで、研修期間中までは一番の有望株として見られていた。自分でもその自信があった。
 ご存知の方も多いかとは思うが、商品先物業界はブラックもブラック。研修は完全なる洗脳研修。研修期間を経て、商品先物取引員の資格を取るまでは、そのブラックは顔を隠している。全く僕はそのブラックに気付けなかった…。

 資格を取り、営業活動が始まると、そのブラックはどんどん顔を出してくる。まず初めにいわゆるテレアポの台本を渡される。そして一言一句を間違わずに覚えさせられる。僕は先ずここでつまずいた。納得出来ない言葉を鵜呑みに覚えられない。割り切って何も考えずに役者になれる奴からそこをクリアしていく。後にわかるのだが、このテレアポ用の台本の中身はテキトーだった。要はここから詐欺師育成が始まっていた。
 テレアポの台本をクリアすると次は様々な名簿を渡される。その会社は医師会名簿が特に多かった。しかし、医師会名簿は金の成る木という枠、その前には使い古されたゴルフ会員権の名簿とか、今となってはよく思い出せないがなんせ様々な名簿がハードルとしてあった。
 目的はただアポイントを取る。そして先輩営業マンと同行して訪問する。訪問時点では契約を勧めない。こういうタイミングが来たら買い時です。と言葉を残し、翌日にその先輩営業マンが一芝居打って、とんでもない買い時のチャンスが来ました!今が買い時です!と、電話の周りではめちゃくちゃ注文が入っているようにガヤガヤと演出をする。で今を逃したら…と煽り立てて契約に至る。とはいえ、ここの会社が凄かったのは相場は確かに上手かった。
 大概、最初に取引を始めるとそれなりの利益は作っていた。一度それなりに儲けるとそこからは欲のまま、営業マンを信じ取引を継続する。そうなるとその会社の儲けのシステムに丸め込まれる。商品先物取引員の儲けは売買手数料と会社の自己取引、売買手数料を得るためには売ったり買ったりを繰り返さねばならない。顧客の勝ち負けよりも、会社の収益優先。一度飲んだ顧客は吸い尽くせるまで吸い尽くす。金が無くなればポイだ。借金を作ろうが何しようが関係ない。

 話をテレアポの話に戻そう。金の成る木の医師会名簿、そして医大の卒業名簿の話。
 ○○大学医学部○○年卒とあれば、○○大学○年卒の経済学部出身のナントカです。この度会社の立ち上げに加わったものですから、是非とも一度ご挨拶に伺わせて下さい。と。コレを病院の休憩時間であろうタイミングで電話をかけまくる。営業内容の適当さも然ることながら、学歴詐称なんて当たり前にやっていた。ドクター達が使う言葉も覚えた。僕も自分の卒業大学の名簿だけには電話をしたからだ。
 かく言うこの文書を書いているのは現在病院の待ち時間、年末ゆえに大混雑。全く因果なものである。

 さて、またしても話が逸れたが、そんな詐欺師まがいの嘘八百を並び立てた営業。姑息、卑怯…ネガティブな言葉しか並ばない。お恥ずかしながら、それまで散々悪さをやらかした僕ではあったが、流石にこの会社の詐欺の手先だけは出来なかった。人の心が全くなかったからである。
 そうなると、僕の営業方法は正攻法を取るしかない。タウンページで片っ端から電話をかけまくる。多い時は1日に500件近く電話した。周りの同期達はどんどん営業を決めていく。残るは僕と、オタクで出来の悪い感じの子だけが残った。その子の名前だけは覚えている。山梨だ。彼は結局、早々に会社を辞めた。そうなると入社当初一番の有望株だけがビリっけつ。慰めの言葉と、蔑む言葉、罵る言葉も増えてくる。正攻法をやめない僕に早く心を売れと勧めてくる。頑なに僕はそれを拒み続けた。それだけはやりたくなかった。

 ついに自分が壊れた。

 最初は手足の痺れ、次に震え、そしてそれが止まらなくなる。人と会話をまともにする事はできず、人の目を見ることもできない。不眠も続いた。電車の列では先頭に並べない。自分で飛び込みそうな衝動と、誰かに押されるのではないかという不安。満員電車に乗れなくて、待機の列が電車に進む中、立ち尽くし次の電車を待ったこともあった。
 ある時、上司に呼ばれ、お前鬱じゃないか?と。病院に行ってこいと。
 今にして思えば、コレはこの上司の良心だったと思う本当に心から感謝している。

 そこから精神科を探し、すぐに鬱病と診断された。

 それまで調子に乗っていた僕の人生が全て崩れ落ちるようだった。僕が鬱?鬱なんて弱い人間のなるものなんじゃないのか!?おれは俺はオレは…。
 どん底だった。薬漬けにもなった、むしろ中毒と言っていいほどだったと思う。電車に乗るのに薬、人に会うにも薬、寝る前にも薬、薬無しでは生きられない状況だった。

 鬱の事も色々と調べた、ある時、フッと高校生の時の担任が坐禅について話しをしていた事を思い出した。見様見真似でやってみた。全く分からない。
 しかし、この坐禅の世界に何かを感じた。
 すぐに近所の曹洞宗のお寺を探した。訳を話し何度か作務を手伝い、坐禅の事も教わった。すごく静かな時間だった。静けさの中に鳥達の声、深い静寂に心が落ち着いた。
 いま思えば、この時、まだはじめて間もない段階であそこまで深く入れたのは、何かのギフトだったのかもしれない。というほどに深く瞑想をした。

 しかし、すぐに僕のお寺通いが同期にバレる。そんな宗教にハマるなよ!と、社宅の寮に住んでいた事もあり、全然変な宗教ではない曹洞宗のお寺から引き離された。

 入社して半年、僕は正攻法を続けていた。薬の力を借りてはいたが、やっと営業を取れた。相場も自分の言葉で話し、テクニカル分析の説明をし、その場で契約を頂いた。いわゆる一発と言うやつである。その会社では1年目で一発をとった者は一人もいなく、僕なりの汚名返上し、契約が決まって帰社した際は拍手で迎え入れられ、その場で退職願を出した。

 これが僕の坐禅との出会いである。

 そんな事で、独学ではありますが禅から学んだ事をつらつらと書いていこうかと思います。

 そして、これだけ文章を書いたにも関わらず、未だに名前が呼ばれない…湿疹の薬を貰いに来ただけなのに、恐るべし年末の病院w

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