記号化の陥穽-1

悪性:☠️☠️☠️

「すべての A は B である」といった言明に対して、 ∀x(Ax→Bx) といった記号化が適訳であるのは、わかり易い。

そこで、「ある A は B である」といった言明は、 ∃x(Ax→Bx) と記すのが適訳に見えるかも知れないが、これは、かなり危険な誤訳になる。 ニュアンスを考えると、「ある A は B である」は、∃x(Ax∧Bx) と訳するのが適当である。

∃x(Ax→Bx) は、「性質 A を満たすとき、必ず性質 B も満たすような個体が存在する。」といったような内容を表す式であるが、これに適切な具体的解釈を考えることで、先述した議論を、見易くすることが出来る。

たとえば、「ある犬は白い」という言明を、 ∃x(Dx→Wx) と表現した場合を考えよう。このとき、なんらかの個体について、それが“犬である”という性質を満たすとき、必ず、“白い”という性質も満たす、といっていることになるが、これは適訳だろうか。

じつは、このような翻訳は、そもそも、“ある犬”が存在することを記述していない。たんに、なにか個体があって、それが“犬である”という性質を満たすとき、必ず、“白い”という性質も満たすということを述べるだけであって、“ある犬”が存在するか否かには関わろうとしない。

然るに、「ある犬は白い」という言明は、ある犬の存在はまず端的に肯定され、それが白いという性質も持つのだと言っていると解するのが適当だろう。

したがって、「ある犬は白い」という文を、 ∃x(Dx→Wx) と書くのは誤訳である。

これを一般化すると、「ある A は B である」といった言明を、 ∃x(Ax→Bx) と記すことは誤りである。このような翻訳に依存した論述は、このことに所以して詭弁である。

「すべての A は B である」という文と、「ある A は B である」は、美しく対応しているように見えて、じつは上述したようなトリックがあった。それぞれに表される意味の違いには、───とくにそれを論理式に翻訳する場合には───注意しなくてはならない。

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