悪性論理

論理というものの中には、わかりやすいものと、わかりにくいものがある。

前者には、たとえば「今日が晴れならば、今日は晴れだろう」であるとか、「日本人は人間なんだろう?じゃあ、人間は日本人じゃないか」「私は日本人であるか、日本人でないかのいずれかだろう」といったものが挙げられるだろうし、後者には、たとえば“モンティ・ホール問題”や“グルーのパラドクス”が挙げられるだろう。

後者のようなものは、得てして思考を混乱させる。その原因には、論理として実際に難解なものもあれば、現にそれが問題として表記されるにあたって言葉のトリックが用いられるようなものもあるが、ここでは、たんに「思考を混乱させやすい論理」ということで、ひとまとめに「わかりにくい論理」であると表現させてもらう。

さて、本書で問題とするのは、このような思考の混乱に付け入って、本当は妥当ではないのに、妥当な推論だと見せかける悪性の論理、いわゆる“詭弁”である。

また、本書ではこれから紹介していくそれぞれの詭弁について、その“悪性”というのを、5段階で評価した。

論理の“悪性”とは、ほとんど字義通りなのだが、つまり「その詭弁について、どれだけ思考が騙されやすいか」ということである。簡単な詭弁であればその悪性を1や2と評価しているし、難解な詭弁についてはその悪性を4や5と評価している。

「その論理に騙されたことによる被害」や「その論理の使用しやすさ」については、前者は偶有なものに依存するため一概な悪性として評価しかねるし、後者は騙されやすさとは別に、すなわち“悪性”とは別に、各々が判断していただきたい。

“詭弁”は、健やかな論理と思考を侵す癌であり、議論の益を奪う。私が忌避し、すべての論壇から排斥したい最たるものだ。

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