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天明クリエイターたち(4)最終回~天才か、反逆者か

売れっ子はコラボする。


小島藩士倉橋いたること酒上不埒さけのうえのふらちこと恋川春町は一躍、時の人に。その経緯は前回の記事をご覧になっていただければと思います。

狂歌師としては三大家のひとり太田南畝おおたなんぽ蔦唐丸つたのからまること蔦谷重三郎(つたじゅう)ら売れっ子狂歌師と吉原でつるみ、戯作者として山東京伝さんとうきょうでんらと、浮世絵師としては喜多川歌麿らと絡みます。ですから、この時代のトップランナーは狂歌師、戯作者、浮世絵師それぞれのジャンルで横断的に絡んでコラボしていたようです。

春町は朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじとよくコラボして黄表紙を出していたようです。ここに出版でプロデューサー蔦谷重三郎が絡めばゴールデントリオです。作:朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ画:恋川春町・出版:蔦谷重三郎で売り出す黄表紙がまたよく売れたようです。売れっ子方程式、阿久悠×都倉俊一や松本隆×筒美京平、あるいは秋元康×後藤次利のような感じでしょうか。
(*‘ω‘ *)トシガワカリマスヨ

この朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじとは狂号手柄岡持てがらのおかもちのことでして、天明クリエイターたち(2)の狂歌師セレクションにも入れさせていただいております。本名は出羽久保田藩江戸留守居役筆頭、平澤常富ひらさわつねとみという、こちらもまた立場のあるお武家さんです。春町と同じように売れっ子で、「宝暦の色男」という通り名があり、かなりのモテ男で吉原で遊びまくっていたそうです。

なんだか……売れる⇒モテる⇒六本木でパーリナイ⇒あらたなビジネス。
そんなヘンケンは良くないと思いつつ
(; ・`д・´)💦サモアリナン

奢侈禁止令~黄表紙の危機

江戸幕府は奢侈しゃし禁令を発布し、たびたび庶民の娯楽を奪います。幕府も藩もお金がないのだから、庶民も贅沢しちゃダメ。綱紀粛正・倹約・節制・禁欲。江戸っ子が楽しみにしていたお祭りや芝居鑑賞もしらけムード。江戸時代後半の、世に言う「~の改革」の風が吹き荒れるたびにエンターテイメント業界は縮小し、庶民は辟易します。天保の改革の時は歌舞伎の市川團十郎(7代目)が江戸追放となるなど受難となりました。

「黄表紙」も寛政・天保の両改革時に発禁の憂き目に遭っております。特に「黄表紙」のジャンルは先端の大衆誌。そこから発信される風刺のメッセージは民心を乱すものとのレッテルを貼られ、内容によって作者は処罰の対象とされました。この時代、「表現の自由」なんてものは一切なかったですからね(・´з`・)

「大衆はより刺激の強いものを求める。」いつの時代も変わらないですね。動画配信がどんどん過激になっていくのもわかる気がします。

あら?ちょっとやり過ぎたかな?お上に睨まれちゃあ大変だぁ
(; ・`д・´)💦

ということで、黄表紙は一気に解毒されていきます。
ですから、「やりすぎ⇒規制⇒カテゴリー衰退」の歴史は繰り返しているのではないかと、現代のありようを危惧している私であります。

ここから江戸後半にかけては「仇討ちもの」・「人情もの」など、朱子学思想・忠孝に根差した作風や、滑稽でお上のコードに引っかからないようおもねった作品が増えていきました。「東海道中膝栗毛」の十返舎一九、「南総里見八犬伝」の滝沢馬琴、「浮世風呂」の式亭三馬などが入れ替わるように台頭してきます。

恋川春町(酒上不埒)~天才か、反逆者か

天明クリエイターたちの風向きが変わるのは、天明7年に白河藩主松平定信が老中に就任してからです。定信は財政緊縮政策・文武奨励策などで幕政の引き締めをはかりました。定信は御三卿、田安家嗣子で、八代将軍徳川吉宗の直系の孫にあたります。幼いころからかなり聡明だったようで、白河松平家に養子に出されるまでは次期将軍候補にも名が上がったほどのお方です。神君家康公、祖父吉宗を心から尊敬し、幕政改革には並々ならぬ覚悟と意欲を持っていたことでしょう。とくに自身が将軍の孫という出自と、努力して学問を修めてきたという自負が、その後の厳しい文武奨励策へ繋がってくるのです。

改革の風当たりが厳しくなってくると、反応するクリエイターも出てきます。春町の盟友朋誠堂喜三二ほうせいどうきさんじ文武二道万石通ぶんぶにどうまんごくどおりという作品で、源頼朝を徳川家斉、重臣畠山重忠を松平定信に見立て、文武奨励策をくさします。これは「別にお上のことを言っているわけじゃないですよ~(*´з`)」という巧妙さだったら良いのですが、ふんだんにそれとおぼしき示唆が盛り込まれています。庶民が読んでも明らかに当代の将軍様と老中殿のことだと分かるありようだったようで、これがまたもやスマッシュヒットしたらしいです。

これをみた喜三二の主君、久保田藩主佐竹義和はおカンムリです。
(-_-メ)💢ゲキオコ
外様とはいえ名門佐竹家から反逆の徒が出たとあれば大事。直ちに喜三二を呼び寄せ、筆を折らせました。その後の処分は分かりませんが喜三二は二度と黄表紙に携わることはなくもっぱら狂歌創作の方に戻ったそうです。

恋川春町も、よせばいいのに盟友喜三二の作品に続き鸚鵡返文武二道おうむがえしぶんぶのふたみちを翌年上梓します。主人公は「菅秀才」ー学問の神様菅原道真ですが、これは松平定信と明らかに判るよう、袖に久松松平家の家紋「星梅鉢」を描く大胆さ。タイトルの「鸚鵡返おうむがえし」も、松平定信の訓辞「鸚鵡詞おうむのことば」を引用したもので、作中では「九官鳥のことば」と茶化す始末。文武文武というが、結局当世の武士には良い効果は期待できないばかりか庶民にとっては迷惑である、といった内容でした。

世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし
ぶんぶといふて 夜も寝られず

詠み人知らず

こちらは、(1)でもお話した、太田南畝おおたなんぽの作ではないかといわれている歌です。当時松平定信の文武奨励策は大衆の批判の的でした。しかし昌平坂学問所を整備し、出自や家柄にとらわれず優れた者は教育し、登用するというシステムは幕末に俊英を輩出する土壌となりましたので、一概に的外れだったとはいえません(現在の東大や東大医学部の前身です)。

さて、当の恋川春町はどうなったかというと、さすがにやり過ぎました。老中松平定信から直接出頭を命じられ、これに驚いたのが主君である第5代小島藩主松平信義です。春町は病気と称し、老中からの出頭を拒み続けるわ、江戸家老を辞職するわ、松平諸流とはいえ改易もちらつきヤキモキします。

そんなある日、恋川春町が江戸の自宅で亡くなったとの報せを受けます。そしてこの件は黄表紙発禁や検閲修正などの処断をもって落着します。

春町は自殺したという説もあります。享年47歳。喜三二、春町らの絶筆とともに黄表紙は時代の潮流に姿を消していきます。

時代の寵児、春町とは天才か、反逆者か。

春町は喜三二の前作の影響と結末を知っていたにも関わらず、出版に踏み切りました。戯作者・狂歌師の「虚栄心」なのか、それとも「矜持」だったのでしょうか。

元々狂歌は河原や辻に立てられた檄文や落首だったそうです。お上を糾弾する声なき声。現代でいえば匿名の書き込みでしょうか。

風刺・皮肉・滑稽・茶化し・うがち・はぐらかし。
春町は言葉の力をもって当世の鼻持ちならない権威を、命を賭して批判するオピニオンリーダーだったのでしょうか。
真相は「藪の中」です。

老中松平定信もその後幕閣、武家、大奥の猛反発にあい、わずか6年、志半ばでお役御免となります。喜三二や春町のことばは、「皮肉」にも現実のものとなります。

百花繚乱の天明クリエイターの時代はこうして終わりを告げますが、彼らの狂歌や作品は、当時の文化・生活をうかがいしることのできる貴重な資料となっております。

(1)~(4)の続きものとなりましたが、最後の最後まで読んでいただきありがとうございました。
「天明クリエイターたち」をマガジンにしました。よろしければご覧ください。


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