本の中の少女

人生において、一番好きなグループが活動を終えた。最後の音楽が途切れたとき、ぼくは新しく買ったパソコンのモニターの前に座っていた。

いろんな感情が渦巻く中で、ぼくは自分の人生にとって Maison book girl とはなんだったのかと考えることしかできなくて、文章にしてみたいと思った。

二年前に東京から北海道へ帰ってきて、アイドルのライブへ足を運ぶ回数が激減した。緊急事態宣言なんて言葉が当たり前になるまでは、好きなグループの大事なライブにはどんな理由があっても行くのが当たり前だった。

コロナのせいでアイドルに会えない。それは自分に対する都合のいい言い訳なのかもしれない。そもそも北海道ではライブ現場に足を運べるチャンスが少ない。情報自体を得ようとするモチベーションが少なくなっていた。

東京に住んでいた10年間。自分を支えてくれた大きな存在はアイドルであり、一緒にライブに行ってくれる仲間だった。いつからかエンターテイメントとしてのアイドルではなく、ライブ会場やSNSでつくられていくコミュニティを楽しむようになり、次第に自分にとってライブ会場に行くという行為は、蓄積されていく疲労を発散する場ではなく、最優先するべき生きがいとなっていった。

そんなとき、Maison book girl と出会った。

最初は同じグループを好きで集まったアイドルを愛する仲間達も、それぞれ別々のライブ現場に足を運ぶようになっていた。それでも巻きこみたがりのぼくは、最初はライブに誰かを誘って通った。しかし時間が合わなかったり、他の現場とかぶったりして独りで参戦することも増えていった。

独りぼっちで聴く Maison book girl の曲は、次第にライブが終わっても日常の中に溶け込んでいくようになっていった。仕事帰りの人たちがいる静かな電車、子どもたちが騒ぐ通勤のバス、仕事をしながらつけるイヤホンの中、打ち合わせで流すインスト、寝る前の暗闇。音と音の隙間から聞こえてくる生活音が曲と一体になってしまうくらいに、変拍子の音楽が自分の日常に溶け込んでしまった。

仕事終わりに大江戸線に乗り込んで、青山一丁目で降りる。コンビニでパンを買って食べながら月見ル(まるでバーのようなライブハウス)まで小走りで歩く。薄暗い狭い会場でほとんど話したことないけどお馴染みの人たちとライブを見る。チェキの列に並んで、順番がきたらあなたにライブの感想を伝える。撮ったチェキを眺めながら駅まで歩いて終電間近の地下鉄で家まで帰る。

Maison book girl に出会ってからそんな日々がいつもの日常になった。毎日が楽しかった。

その頃の自分はコミュニティに関わるちょっと特殊な仕事をしていたから、こんな気持ちになれる世界が再現できたらいいなって思いながら仕事に励んでいた。なにが現実でなにが妄想なのか、この頃は(今もかもしれないが)頭がごちゃごちゃになっていたと思う。ステージで輝くアイドルを見ながら自分の仕事に還元しなければという謎の使命感に駆られた。

長いことアイドルオタクを続けていると誰でも通る道だと思うが、オタ活動と仕事、そして家庭のバランスは自分にとって永遠の課題だった。かなりバランスを保てていたほうだなと自分を評価してあげたいが、バランスが歪むときも多々あった。そんなこんなで東京での生活が10年になろうかというとき、地元である北海道に帰ることになった。正確に言うと遠征組として生きることを決意した。あなたには北海道代表として布教しにいってきますと宣言して、2019年の秋、ぼくは北海道に引っ越した。

引っ越してからすぐに、札幌のリリイベとライブに行った。東京では独りで行くことも多かったのに、東京からわざわざ来てくれた友だちや、他のライブ現場で出会った友だちと一緒に行った。やっぱりオタク仲間は居心地がいい。

2020年の正月、ぼくは東京にいた。私にとって生で観戦した最後のライブの日になるのだろうか。それは今もわからないけど、この日のことは忘れる日はきっとこない。北海道から東京への初遠征ライブ。楽しい仲間たちとほとんど話したことないお馴染みの人たちがいる空間で、あなたが本気でやりたいことを真っ直ぐに表現している姿を見た。ぼくは不器用だから、あなたに対する感謝の気持ちはライブ良かったよという単純な言葉でしか伝えることができなかった。だから自分が生きている日常の中の行動を変えることで感謝を伝えるしかないと思っていた。直接伝えることはできないけど、あなたのおかげで人生が豊かになりましたとぼくは思いたかった。

それから少しして世界がちょっと歪んでしまった。ライブには行きにくくなり、東京に行くことも躊躇するようになった。でもそれがウイルスのせいなのか、自分の気持ちのせいなのか、本当のところはわからない。ただ一つ確実に言えるのは、2020年の1月以降、ぼくは東京に行っていない。

長くなってしまったが、本当に書きたかったのはここからだ。ぼくが最後のライブを見れなかった理由。それは Maison book girl が自分の人生にとてつもない影響を与えてくれたからだ。

自分が正しくやりたいことに没頭できているとき、ぼくは一番幸福を感じる。ライブに通った日々は、やりたいことを真っ直ぐに追いかけていた。未知の世界に触れ、共通の好きなものだけで繋がる人たちと、ちょうどよい居心地の場所で、やりたいことを追求して表現しているあなたの姿を見る。そのサイクルがいつしか自分のライフスタイルになっていた。

やりたいことを真っ直ぐに愚直に取り組む。実践できているかはわからないけれど、これは自分の人生における変えられないマインドとなった。北海道にきたのは、やりたいことのバランスの比重を強制的に変化させるためだった。こんな風に考えるようになったのは、まちがいなくアイドルライブに通うようになったことが大きな影響を与えている。自分にとってエンターテイメントは趣味の領域を超えて、人生観そのものになっていたことに気がついた。

最後の音楽が途切れたとき、ぼくは新しく買ったパソコンのモニターの前に座っていた。

Maison book girl が削除された瞬間、あなたともう会えないかもしれないというのに不思議と心はおだやかで、ツイッターで騒いでみたけれどそれはやっぱり偽者の自分だった。これは実際に通っていた仲間達にしかちゃんと伝わらない表現だけど、あなたのことはひとりの人として接していたから、もう会えなくなることは純粋にさみしい。ひたすらに人生を幸せに過ごして欲しいなと思う。一年以上もライブ現場に行けなかったから、個人の気持ちとしては忘れられているかなとさみしくなったりもするけれど、あの空間のひとつの要素として存在できただけでぼくは幸せだ。それぞれの記憶の中で同じ出来事を共有できたことが本当にすばらしいことで、ただただあの空間をもう一度味わえないことが、焦燥感のような気持ちだけが脳に居座ってる。

Maison book girl という作品を見たとき、何も外部の環境に迎合していない世界で、ただ茫然とした。皮肉にもぼくは Solitude HOTEL 4F のあたりからこの作品に参加した。2017年から積み重ねてきた作品と自分の関係において、Solitude HOTEL の最後をオンライン配信で見たことは必然的だった。きっと東京にいた頃の自分であれば、こんなヘマは犯さない。愚直にライブ現場へ行く手段を探し、どんな手を使ってでも現場へと足を運んだだろう。でも、今の自分は北海道にいる。やりたいことをやるためにここにいる。そんな遠くにいる自分にオンライン配信で参加できる手段を神は与えてくれた。それでも編集された映像と音声から伝わる情報を感じるだけでは、やっぱり本物のそれにはなり得ない。頭の中で甦る、過去のライブ現場にいた五感の記憶。そのときに感じた空間の手触り感がいろんな感情にアクセスしてくる。自分にとって最後のライブは、Solitude HOTEL という作品に参加したすべての自分の記憶だった。

最後の瞬間、あの空間に触れられなかったこと。それは自分の人生にとっては、大きな意味となる。やりたいことはやり遂げることが大切だよって、伝えられるおじさんになれたらうれしい。オンライン配信で見たことによって、あの作品には参加できたのかもしれない。だって、確かに同じ気持ちを共有できた。酒を飲みながら感想をシェアし合う仲間はそばにいなかったけど、孤独感はなかった。

作品ひとつひとつの要素について、すばらしさを伝える言葉をぼくは持ち合わせていない。言葉にはできないけど、音楽も映像も光の演出も全部好きな作品だった。これからもたぶん一番好きな作品になる。

自分の人生にとって Maison book girl とはなんだったのか、一言で表現するのは難しい。それでもぼくの拙い表現力で文章にしてみると、

やりたいことを愚直に実践するきっかけであり、その世界に没頭できる時間を与えてくれた存在。

全然伝わらないかもしれないが、今のところはそんな存在だ。もうひとつだけ付け加えたい。

ぼくにとってあなたは、やりたいことを真っ直ぐに表現する憧れの人で、自分に居場所を与えてくれた素敵な人で、この世のものとは思えないくらい美しさと可愛らしさの両方を兼ね備えた天使のような人です。

あなたとみんなの幸せをいつまでも願っています。

書きたいこと書ききった。この文章の長さは、Maison book girl に対する愛の深さです。

今日も1日、楽しくがんばろう。