つまり地層のようなこと

人は自分の経験の中からしか物事を判断できない。これは三十数年生きてきて、思うようになったことだ。

誰かになにかを相談されたときに相手の立場になって考えようとすると、相手と似た人を思い浮かべるか、自分が似たような感情になったときのことを思い浮かべて話すことが多い。いくら想像したところで経験したことがないと、自分の頭では理由にたどり着けない。だから事例を捜し当てるのだ。

社会経験が増えてから、自分の想像を疑うようになった。自分の見てきた景色の中から、経験をかき集めて話しても伝わらないことが多いからだ。見てきた景色がちがうと考えることは変わるし、その人にとっての正解も全くちがうものに変わるのである。

そんなの当たり前だろと思う自分もいるのだけど、よく考えてみると時代の影響が大きいのかなと思う。敗戦後にいろんな仕組みが整えられてく中で、経済成長だけが共通の最適解だったわけで、いちいち正しさを疑う必要もなかった時代に少数派と話す機会も少なかった。インターネットの時代になり、少数派の存在に気がついて興味を持ってしまえば、自分の当たり前の想像も疑うしかない。

口から出てくる言葉はいつも疑いたくなることばかりだけど、心から湧き出てくる感情や他人と共感できたときの気持ちは信じてもよいものだと思っている。だからなるべく自分の中に住んでいるソイツらとは仲良くしようと思う。一生裏切らない良いヤツだからね。

ソイツの思ってることはいつもころころと変わる。いや、ころころと変わってるように聞こえる。実際は変わってるのは自分の置かれてる状況や話をしている相手が変化しているだけで、ソイツはいつも同じ場所から同じ角度で意見を伝えてくる。自分という生き物は経験したことからしか物事を判断できないので、そこから見える景色を伝えてくるだけなのである。

変われないことと、変わっていかなければならないこと。これはいつもセットで行動しているのだ。そう考えてみると、少しは楽になれる。この文章ぜんぜん伝わらないと思うけどね。

以上、つまり地層のようなことでした。