ぼくたちはなにかを残すということについて、もう少し真面目にかつ柔軟に時にはおふざけもいれながら考えないといけないのではないか?

ちょっとめんどくさいタイトルなんですが、けっこう本気でそのようなことをずっと考えているので文章にしてみる。

持続可能という言葉がこの世界を駆け回る2023年くらいでしたが、なにかを持続させるということはつまりどういうことのことを言っているのだろう。

持続をググってみると「長く続くこと。もち続けること。」と検索結果に表示された。(2024年1月30日時点)

次にChatGPT3.5に聞いてみた。


ということでした。

賞味期限が短い新しいものを生成して、それを無尽蔵に生成し続ける2024年の現代では、いろんなことがごっちゃになってしまい、本当に持続させる必要のあるものが何なのか見失ってしまったいることがあるのではないだろうか。

ぼくたちが現在地の座標点から見ている持続とは、現在を生きている私たちの都合のよい解釈にしかすぎない。

現在まで持続してきた物事は、時代の変化とともに、必要に応じて姿形を変化させながら今に続いている。

無限に再生成し続けないものは、必要のなかったものとして過去の中に閉じ込められて、また掘り起こされるまで見つかることはない。

どの時代においても生き続けているものというのは、その時代の人間たちに応じて変化しながら、それぞれの表現を加えて持続させている(=再生成している)にすぎないのである。

少なくとも、長くても100年くらいしか生きられない私たちにとって、自分たちの時代に存在させたいものは、自分または誰かの力で再生成し続けるしかないのである。

毎年なにも変わらないお祭りだって、なんとかして残していくために参加者にとって意味のあるものへと変化しながら、ずっと見続けている人にしかわからないような微量の変化をしながら続いているにすぎないのである。

その視点からいけば、変化しないものなんてこの世に一つもないのである。

ChatGPTは教えてくれました。持続に必要なことは最終的には、
「モニタリングとフィードバック」「困難への対処」だと。

持続という言葉を調べると「環境」に関連した言葉がでてくる。だがしかし、ぼくにとって環境というものは、イコール「自然」であり、「古き良きもの」であり、「歴史的なもの」なのである。

限られた資源を大切にする。なくなってしまうかもしれないものを大切にする。私たちにとって本当に残さないとならないものはなんなのか?改めて見つめ直してみると面白い発見があるのかもしれない。