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斎藤隆、オールドルーキーの冒険と貢献

2006年に米国へ渡り、ドジャースに昇格したとき、斎藤隆は36歳。オールドルーキーへの期待は内外でそれほど高くはなかった。

ベイスターズでは1998年初の日本シリーズで完璧な完封勝利を挙げ、日本一に貢献後、大魔神が去ったあとの投手陣の頼れる存在として先発や抑えにフル回転した。

そして優勝から7年後の2005年のオフに球団に志願してメジャーに挑戦。30代半ばのタイミングでの挑戦は、無謀では、という評価も少なくなかった。

それは彼にとっても勇断だったはず。本人も自分の夢のための決断と公言し、成功するかどうかは半信半疑だったろう。

ただ、ベイスターズで投げた最後のシーズンとなる2005年は三浦大輔が最優秀防御率のタイトルを獲得するなどエースとしてのポジションを確立したことや、高校からの先輩佐々木主浩のメジャーでの活躍と復帰、肘を痛めた野村弘樹の早過ぎる引退など…振り返れば、その数年前から彼のメジャー挑戦の環境は整っていた。

91年のドラフト同期で、痒いところに手が届くようなコントロールでエースの座を勝ち獲った三浦大輔を柔とするならば、恵まれた体格からの直球とスライダーで打者を圧倒する斎藤隆は剛であり、願わくばこのコンビで98年の再現を、と僕は期待をしていた。

それだけに、監督が変わるたびに役割も変わり、言葉は悪いが、使い捨てのようなてん末ではないか、と退団の際には勝手に憤慨したものだ。
同時にメジャーでも剛の斎藤隆はやっていけるはずだと信じていた。

メジャーからのスタートではなかったものの、ドジャースの守護神の不調やケガもあり、チャンスをつかむと、一気にスターダムを駆け上がっていく。

陸上競技の槍投げのような投球フォームはそのままに。

いつ登板するかわからないリリーフでもあり、ライブで投球を見られる機会は少なかったが、オールドルーキーのサミーとして彼がMLBで存在感を徐々に増していくと、メディアでも取り上げる機会が増えていった。

その過程は、素直に嬉しかったし、メジャー挑戦に冷ややかな見方をしていた輩や球団を見返すことができたと溜飲を下げる思いだった。

ポストシーズン進出を賭けた試合でのドジャースの4者連続ホームランの奇跡の逆転劇は、半信半疑でスタートした彼のチームへの献身的な投球が導いたものだろう。

メジャー7年間でNPBでの実績を上回る85セーブを挙げ、日米合算のキャリア112勝139セーブ。

オールドルーキーはメジャーに行って成功を収めた。上原浩治氏のように名球会資格を優に充足する実績を達成したのだ。

誰も、日本のBクラスのチームでエースの座を失った男がメジャーでふたたび覚醒するとは思わなかった。

僕も、メジャーに行って夢を叶え、実績を達成してなおケガと戦いながら、投げ続けるとは思わなかった。

40歳を過ぎて、ふるさとの東北に戻り、楽天イーグルスで初の日本一に貢献し、現役引退後は日本代表でも投手コーチを務め、スワローズを経て、2022年からベイスターズのチーム三浦の投手コーチとして戻ってきた。

僕の20年前の叶わなかった夢を叶えるために?

12球団最低だった防御率を2年間で急ピッチで改善し、11番を受け継いだ東をエースに育て、上茶谷たちを覚醒させ、ベンチに戻ったJBウェンデルケンを三顧の礼で労う姿。

ベンチの奥で大きな体で腕を組み、ピンチのマウンドではひときわ目立つ大男は、彼のさまざまな貢献の野球人生を知る者として、彼のイケボとともに忘れ難い。

そして、今年のベイスターズの森原の活躍はドジャースのオールドルーキーだった斎藤隆を想起させた。

今年のベイスターズ最後のマウンドをイーグルスから移籍してきた森原が締め括り、それを見届けた斎藤チーフ投手コーチはベイスターズのユニフォームを脱ぐ。

再びの三浦大輔との同期コンビでのフラッグや日本一獲得は叶わなかったが、ヒゲに白いものが目立つようになるまで奮闘をいただいた。

昔も今も僕のヒーローであり続けた彼には感謝しかない。タカシ、おつかれさま,

選手としてのヒストリーはこちらのイーグルスの現役引退時の手篤いコンテンツをご参照。特にヒストリームービーは必見。健康問題が許すなら、今後はフロントよりもメディアでの姿をまた見たい。

ちなみに日本シリーズでチームとして、2勝を挙げている投手は、秋山登と斎藤隆のふたりだけだ。

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