人間関係という集合と、諸要素。そしてその境界線。

仕事とプライベートは完全に分けたい人間なのですが、
趣味もしっかり分けたいと最近思うようになりました。
図にすると、こんな感じ。↓

我ながら拙い図、、、気持ち悪い、、、。
何が言いたいかというとですね、
仕事でも趣味でもない場所で出会った人たちー幼馴染とか同級生とか、主に学生時代の友達ーを、仕事上の人間関係や趣味で知り合った人たちとの関係性の中に入れたくないんですよ。
もちろん彼らが私の知らないところでいつのまにかその趣味にハマったり、仕事でたまたま出会ったり、みたいなのは全然良いしむしろ縁だとも思うのだけど、
そうじゃなく、私がなにか影響を与えてしまうことがなんとなく嫌。手を引っ張って、こっちの世界においでよって言うのが怖い。
なんでだろうな。
責任取れない、取りたくないからだろうな。
これ面白いよっておすすめしても、まあ感じ方や考えることはさまざまなわけで、
そもそもその世界が合わないことだってあるし。
いいじゃんって言ってもらいたいのはただの承認欲求だし。
こんなにあれこれ考えて悩むくらいなら、初めから境界線をしっかり引いて、境界線に守られながら趣味や仕事と向き合った方が気分的に落ち着くし純粋に楽しめると思うのです。


【蛙化現象】って最近よく聞きますが、
私は数年前からその言葉を知っていて、
まあ、自分がまさにそれに悩んでたからこそ辿り着いた言葉でして、
だから、この言葉が間違った解釈で世の中に広がってしまっていることがかなり辛くてですね。
「私は本物の蛙化現象です!」みたいになるのも嫌で、あまりそういう話はしないようにしようと心がけるようになりました。
話が少しずれましたが、好意を持たれると逃げたくなるーいわゆる蛙化現象ーって、趣味の境界線が破られるんじゃないかという脅威から生じている面もあると思うんです。あ、あくまで私の場合は、です。
仕事の人間関係はこれからなので、ここでは趣味とその補集合という分け方になりますが、補集合にいる人間が、私をきっかけにして私の趣味の領域に入ってこようとするのがちょっと怖い。
趣味の領域にいる人間って、身近な人だけじゃなくて、むしろ身近な人って少なくて、好きなアイドルとかアーティストとか作家とか、いわゆる“推し”も含まれてるわけです。(それを“人間関係”と言って良いのかは置いといて)
推しは誰にも否定されたくない、守るべき存在です。
こう言うと親衛隊みたいでかっこいいけど、推しを否定されることによって傷つくのは私自身なので、結局守っているのは私の心です。
つまり、趣味の領域は自分のためにも守らなければならないのです。
好意ってつまりは興味だと思います。たぶん。
違うのかな、よく分かんないけど少なくとも発生源ではあると思う。
好意を持たれる、つまり興味を持たれる。それは、私の心を脅かす脅威に近いのだと思います。

最後に、誤解を招かないように言っておくと、
「補集合」って言い方はちょっと冷たく聞こえるかも知れませんが、そこにいる人間を貶してるわけでも嫌っているわけでもありません。
むしろその逆で、ほんとにめちゃくちゃ大切で大好きな人たちばかりです。
中には卒業してから関係性が薄くなった人もいるけど、だからこそ、今でも濃く残ってる人間関係は尊くて感謝しかない、、、、。

いろいろ分析してみたけど、みんなそれぞれ楽しく生きていこうぜってのが一番根底にある考え方なのだと思います。

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