子牛に名前を付けない理由

私の実家では牛を飼っていて、
小さい頃から身近な動物といえば牛でした。
子牛の出産に立ち会ったこともある。
産まれたての子牛を見てしまうとその子にどうしても特別感を抱いてしまって、
顔を覚えてもらうために、熱狂的なドルオタのごとく、学校から帰ったら毎日牛小屋に行っていた。
最初は警戒して私の様子を窺ってばかりなのに、
毎日顔を見せれば警戒心も解け、近寄ってくれるようになるんですよね。
顔を覚えてもらおうと必死だったのは家族の中でも私くらいで、基本的なお世話をしている祖父母以外の家族は牛には無関心だった。
時々、そんな家族を牛小屋に連れて行って、私にだけ警戒せずに近寄ってくれる子牛を見て、満足感や優越感に浸っていました。
ところで、おばあちゃんに子牛の名前は何なのかと聞くと、子牛はそのうち売るから名前は付けないのよと言われ、なんとも言えない気持ちになったことを今でも強く覚えている。
正直、私は今でも実家の牛がどういう牛でどういう目的なのかよく分かっていなくて、
食用なのかも怖くて聞けなくて、
牛の品評会(?)的なものに出される感じなのかなと思いつつ、でもそのあとは?みたいな感じで、
ちょっとモヤモヤを抱えながら20数年を生きてきました。
でも事実、ある程度成長した子牛がどこかへ引き取られていく姿は何回も見ていて、
その日は授業にも集中できず、
家に帰って、若干温度が下がった牛小屋を眺めながら、
動物と人間のヒエラルキーについて考えを巡らせるなんてことを何度もやってきました。
名前を付けるって、幸せそうな、喜びに満ちたことのような気がするけど、
“命に対する責任”もしっかり含んでいると思う。
ペットとして飼うなら名前を付けてお世話すれば愛着が湧く。
だけどその分、最期の別れの辛さが増す。
でもその辛さはちゃんとその子に対して愛情を注いで育ててきたことの証拠であって、ちゃんと命に対する責任を果たしたってことなんだと思う。
売ることを前提にしながら育てる子牛。
その命に対する責任は、どうやったら果たせるんだろうか。
子牛に、自分の顔なんて覚えさせなければ良かったな。
当時は自分のことしか考えてなかったけど、今考えてみれば、凄く残酷なことをしたように思う。
そんなことを、大阪湾のヨドちゃんが死んだニュースを見ながら考えた。

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