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「Xでの引用RP」がいかに原作者の精神を蝕むか、その証拠と回避する方法についての実例記録。

割引あり

本日より、"プロのツイッタラー"になりました。

13年近くTwitter(X)を利用してきた、人生の1/4を記録してきたサービスでもあるので、作家として、著者として、純粋に「収益化を祝いたい」という気持ちがありました。まずはご愛顧いただいているフォロワーの皆様、改めてよろしくお願いいたします。

見たこともないメッセージ

なお現在のXでは一定数のフォロワーと「3ヶ月間に500万ビュー」を達成しないとこの状態にはなりません。今回は、2024年1月27日10:36のツイート(ポスト)が収益化条件達成のきっかけになったと考えます。

293万件の表示、525件のRP、1349件のLike、339件のブックマーク、という数字なのでこれ単体のプレゼンスではなく、普段から200万ビューぐらいはあったという事なんだろうなと理解します。

また「おめでとうございます」と言われると純粋に「お祝いしたい」という気持ちが湧いてきますが、「実はたくさんの人に届くアカウントとは、そんな嬉しいことばかりではないのかもしれない」と考えています。今回のブログはそんな嬉しさとは真逆の「Xの負の側面」を伝える記事になります。

芦原妃名子先生の訃報、悲しみと悔しさ。

まず、このXの引用RPに関するブログを書こうと思ったきっかけはこの報道にあります。

漫画家・芦原妃名子さんが死亡 「セクシー田中さん」など連載
マンガ雑誌で連載中の「セクシー田中さん」などで知られる漫画家の芦原妃名子さんが28日から行方不明になり、29日、栃木県内で死亡しているのが見つかりました。自殺とみられています。
捜査関係者によりますと28日午後、漫画家の芦原妃名子さん、本名・松本律子さんの関係者から行方不明者届が出され、警視庁が行方を捜していましたが、29日、栃木県内で芦原さんが死亡しているのが見つかったということです。遺書のようなものも見つかっていて、現場の状況などから自殺とみられています。
芦原さんの作品はたびたびテレビドラマ化され、現在、マンガ雑誌で連載中の「セクシー田中さん」は去年10月から日本テレビ系列でドラマ化されていました。
先週26日(金)には、芦原さんは自身のSNSでドラマの9話・10話の脚本を自ら担当した経緯を明かしていましたが、28日になって経緯のコメントを削除し、「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」というコメントだけを残していました。
日本テレビは、「芦原妃名子さんの訃報に接し、哀悼の意を表するとともに、謹んでお悔やみ申し上げます。2023年10月期の日曜ドラマ『セクシー田中さん』につきまして日本テレビは映像化の提案に際し、原作代理人である小学館を通じて原作者である芦原さんのご意見をいただきながら脚本制作作業の話し合いを重ね最終的に許諾をいただけた脚本を決定原稿とし、放送しております。本作品の制作にご尽力いただいた芦原さんには感謝しております」とコメントしています。
厚生労働省や自殺の防止活動に取り組む専門家などは、悩みを抱えていたら自分だけで解決しようとするのではなく、専門の相談員に話を聞いてもらうなどして欲しいと呼びかけています。

●電話「こころの健康相談」0570-064-556
●LINE「生きづらびっと」友だち追加
●LINE「こころのほっとチャット」友だち追加

日本テレビ放送網2024年1月29日 17:50

日本テレビがこのような報道をするのはなぜなのか、私自身、意図が理解できていなかったのですが、最終的にこのブログを書いてみて整理がつきました。おそらく是非の両方がある中での報道としての立ち位置と、メッセージとしては「自殺はよくない」という方向と理解します。

その前に、日本テレビや脚本家を攻撃したくなる気持ちを持った人々。
ちょっと待ってください。あなたはその行動をする前にこのブログを読んで冷静になってください。

先生を死に至らせたのは、日テレでも脚本家でもなく、
あなたかもしれないんです。

「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」

セクシー田中さん」の原作者、芦原妃名子さんが自ら命を断つ直前にポストしていた、そして削除したXの投稿が存在しています。
その長文は削除されてしまっていますが、いま残っているポストは
「攻撃したかったわけじゃなくて。ごめんなさい。」

https://twitter.com/ashihara_hina/status/1751457987397652676

この遺書に遺された1行がどんな意味を持つのか、考えてみてください。

「@ポストしたアカウントが返信できます」が表示されている、つまり引用も返信もできないということはどういうことなのか、考えてみてください。

著作者人格権がどのように扱われていたのか。

まず原作者にせよ脚本家にせよ関わる人々が直接命を落とすようなことがあってはならないです。

本当の経緯はよくわかりませんが、報道からいくつかの状況説明が読み取れます(これも一つの見方、ぐらいの意味でしか無いです)。

1月27日の報道。

ドラマの放送は既に終わっています。どんな感想を抱いてもいいと思いますが、だからといって日テレやドラマ製作陣を攻撃するのは待ってください。面白くないなら見なければいい。感想も述べる必要はない。そもそも原作者がドラマ版という翻案化に介入した時点で、難しいことが起きている。

私は日テレやドラマではなく、原因は引用RPにあるのではないかと見ています。そうでなければそのポストは削除されることがないはずなのです。

漫画「のだめカンタービレ」の原作者二ノ宮知子さん。


たしかに、「のだめカンタービレ」も原作とドラマはぜんぜん違う作品になっていました(初期の企画はもっと異なっていたようです)。当然、ドラマを知って原作を買った人もいるでしょう。その後のアニメは原作に比較的忠実に製作されました。

売れたか売れていないか、という指標は重要ではあるのですが、「出来が良いか悪いか」、「原作に忠実だったかどうか」コンテンツ消費者からのフィードバックは数字、つまり売上や視聴率といった数字で製作者側に突きつけられます。批評や批判といった言葉は製作者、この場合は放送局なり製作陣が認識して受け止めて「次の作品に活かしていく」というためだけに存在するものであり、「原作者が攻撃される」という行為は全く持って筋違いです。漫画原作のドラマ化の場合は、原作者はもう原作を修正することは出来ません。できることといえば、契約書に同意しないか、責任を持って原作者としてドラマ版の製作に関わるか、ということになりますが、一般的にはそのような関わり方をさせてもらえる契約のケースは少ないと感じます。多くの場合、契約者の代理人として出版社が関わり、さらに原作者には「著作者人格権の不行使」が契約書の条件に盛り込まれている場合もあります。

今回の「セクシー田中さん」の脚本に、原作者が関わった、という時点で、ドラマ製作側にはそれなりの配慮があったのではないかと想像します。一方で、ただでさえ忙しい原作者が専門ではないドラマの脚本に関わり、さらにその修正作業に関わることは、大変な精神的な消耗があったことと想像します。ドラマの現場は漫画の原作とは全く異なります。まずは商品性や、芝居としての秒数、わかりやすさ、役者の演技といった要素が入ってきます。漫画の原作と異なる最大のストレスは、漫画原作の場合は、漫画家としてのネームと出版社側の窓口となる編集者との対話、二人三脚で進行しますが、ドラマの場合は、上記の通り、数多くの意見が入ってきます。場合によっては役者の演技力やセリフの記憶力のおかげで、セリフの置き換えや言い直しが発生し、さらに監督、演出家の方向性でそれが強化されていきます。ト書きとして最終的にどのように直されていくのか、という工程は複数の人間が関わった「原作リンチ」になることは必然であり、むしろ「原作に忠実に作られたドラマ」が奇跡の産物であること認識したほうがいいかもしれません。

私はドラマ原作になるような著者ではありませんが、漫画好きとして、原作者としてあるべきドラマ版への姿勢というのはこういうものであるべきかなと、わかりやすい例を挙げさせていただきます。

リアルタイムで無垢に楽しみにしていた側としては、原作者のこの感想を知りたかったです(当時はそういう原作者の感想を述べる場所もなかった)。しかし原作ファンとしてはこれを知ったら怒りをドラマ製作陣にぶつけてしまっていたかもしれない。

「自分が好きなもの」を翻案によって「蹂躙される」ということは、たしかに怒りの感情を感じる可能性があります。しかしそれは「著作者人格権」つまり、「原作者の心をまもる権利」を上回るものではありません。あなたがどんなに原作が大好きだろうと、大嫌いだろうと、原作がなければその思いは生まれていない、そしてその作品から辛かったり悲しいことが生まれたとき、本当は原作者がいちばんつらい。そんな思いをしたくないから原作者が頑張って責任を持って合意するなり修正なりして産まれたドラマ版なので、しかも完結していない作品、これは『尊い原作の一部』なのであって、いち消費者が唾吐く相手ではないのです。
「俺は原作ファンだ」という人もいるでしょう。しかしそれは飲み込んでください。何か言いたいなら、「俺は原作ファンだからこそ、このドラマ版が二次創作であることがわかる。この製作者や商業的なプロダクションを行っている側が原作に対する理解やリスペクトが薄いということもわかる。しかし俺は『同じものを作れるか』というとそんな事はできない。こんな高そうな役者を使って、こんなたくさんのスタッフを使って、この素晴らしい原作を使って、そんな勇気があることをする、そんなことができるこの製作陣はほんとうにすごい勇気だ。俺はいくらお金を積まれてもこんな事はできない。同じ金額を積まれたとしても原作の世界を生かした映像化などできない」それぐらいの感想を抱いてから他者に唾を吐きたければ天を向いて吐いたらいいんじゃないかなと思います。

引用RPという地獄の河を泳ぎ切る

Twitterに「引用リツイート」が実装されたのは調べてみると2015/04/08あたりであったようです。もともと「140文字」という制限があったTwitterの2015年当時は動画どころか画像も十分に扱えてはいなかった時代です。たかだか10年も経っていないこの機能は、Twitterユーザにとって利便性を提供しながらも、多くの場合は地獄を提供していると考えます。

上記のような報道では、引用RPがいかに原作者(ここでは漫画原作と、ツイートの原作の両方の意味)の精神的な消耗を誘発するかについて、触れられていません。たとえば例として、先程の二ノ宮知子先生への引用RPを拝見してみましょう。

最近はポスト右上「…」から「エンゲージメントを表示」としないと見ることができません

https://twitter.com/nino0120444/status/1751911715544113201/quotes

ものすごいたくさんのご意見です。一部紹介します。

ほんの2件だけ紹介しましたが、猛烈な社会に対する批判や不満、このベクトルをツイートの原作者にぶつけていく様が見受けられます。いくら、最初のツイートが「正しい自分の主張」であったとして、それを引用RPするご意見が「正しい主張」であったとしても、この批判、負のエネルギーを24時間ぶつけられ続けるのは、メンタルが持ちません。
これをほぼ無関係の二ノ宮知子先生に対面でぶつけられる勇気のある方はどれぐらいいらっしゃいますか?のだめカンタービレのドラマ製作陣や出版社の方々にぶつけられますか?これは引用RPという地獄の河です。高速道路のような速度で流れています。
そして二ノ宮知子先生は何か悪いのでしょうか?この発言をツイートすることが問題なのですか?「お前が起こした交通事故だ、お前が悪い」という行為なのでしょうか。それとも轢死した死体を後から轢くのは犯罪ではないということでしょうか。

ひとつひとつの発言は自由かもしれませんが、ちょっと待ってください。
沢山の人に共感を呼びながら、削除されるツイートの背景にはこのような現象があるのです。

我々はなぜ引用リツイート(以下、引用RP)をする必要があるのか。

・他者の意見に自分の意見を乗せる
・画像や動画といったインパクトのあるコンテンツを合法的に再利用する

簡単に言えば「他者の原作を利用しなければ何かを発信できない」という認識を持つべきではないでしょうか。
もちろん、引用RPによってディスカッションや止揚が成立する可能性はゼロではない。あまり意味があることとは思えないのですし、なかなか振り返ることには勇気が要りますが、先程の自分のポストについて振り返ってみます。

▼quotes、つまりバズりに対する引用RPを、一つのケースとして主観的な感想を交えながら、客観的に解説しておきます。

https://twitter.com/o_ob/status/1751056568328822942/quotes

若干不快な例

原作者の意図を斜めから見た「批判」であり、立場からすると安全なところから石を投げているようでもあり、原作者本人としては気持ちがいいものではありませんでした(若干不快)。しかも原作よりも多くの共感(1,413RP)を得ているようにも見えます。ただ私自身も「設計の範疇での反論」という理解であり、反論に同意も強調も反論もするつもりはないが、まあ「いいね」ぐらいの気持ちはあったと記憶しています(過去形)。この方がこの先どんなマウントと取ったとしても、私自身に特に絡みが無ければ問題はないし、むしろどこまで批判しても『オワコン』と言われる可能性があることは受け止めねばなりません。それはChatGPT関連ですら同じこと。実際にエキスポで立って眼の前のお客さんと商談をしている側としては、ネットの他者意見と直接対話する暇がないのでこれは放置でいいと思いました。

対話が成立する例(同じ境遇にいる)

続いてこちらです。武者さんは会場にいた出展者のようです。

こちらも完全に反論です。怒りの感情も感じます。私自身も近隣の空間に居た側としては騒音で迷惑でもあるし、音楽カルチャー大好き側の視点として「混ぜるな禁止」という感想以上のフィードバックを返しようがないので「いいね」しつつ、「気持ちはわかる!!」と肯定的に対話しつつ、運営にお伝えしつつ、丁寧なブログでの解説まで行っています。




優秀な引用RTの例。

ねこますさんご無沙汰しております。さすがの1行で「XRもメタバースも関係なくてすき」という批評や批判に「すき」の2文字を入れる配慮で、これぞVTuber四天王の5人目という感じがします。マウントと取ったとしても、VTuberやXRの時代を作ってきた始祖の巨人として(仮に皮肉だったとしても)「すき」というベクトルを向けることで人格や徳が高まります。唾を吐く行為の真逆とも言える業でしょう。

それ以外の引用RPは基本的に、「理由があって放置」させていただいています。なぜなら私自身は物理的に会場におり、現実で「メタバース展なのに、若者が眼の前でめちゃ盛り上がっている」という現実は真実の一角でしかないでしょう。「ネット上の顔も見たこともない方々が考えるメタバース」との認知にズレがあったとしても、私はその人の認知にあえて一石を投じる意味でこの動画を投稿していますし、ネット上の喧騒にディスカッションする意味が薄いので。彼らには「見えている世界が違う」のだし、知識も視界も認知も異なる人々とディスカッションは成立するとは思えないのです。

ディスカッションが成立する例(極稀)

極稀に返信した例です。これは「実際に会って知っている人」だから。
私の記憶が定かであれば、この方は中国語を喋る日本人。

「そんなこといっていると大事な機会を損失しますよ~
という最大限の配慮。語尾に「~」をつけるとチクチク言葉を和らげることができるので、ネットで喧嘩したくないときは使ってみてください。

新しい日本語「~」(語尾の波長音記号)の配慮と背景

「そんなこと言ってると大事な機会を損失します(よ~)」
これは「原作者の主張としては全く持ってその通りなんだけど、だとしたらここで引用RPに返信をしにいく必要がないんだよ~」という気持ちで、色々考えた末に投じた作文です。実際に会ったことがある他者であるのであえて時間をかけて作文しています。

みなさんがもし、原作者から引用したRPに返信をもらったら、「この人は相当やさしいひと」であると認識しなければならないと思います。原作者のツイートは何十何百何千と引用RPされ、スマホの通知が大変なことになっているところで、わざわざ「この引用RPは誰か?」を認識し、プロフを読み、コンテキストや主張を理解して、作文までしている、ということを想像しましょう。さらには「よ~」(語尾の波長音)までつけて、チクチク言葉を和らげる配慮までしているのです。これは優しさ以外の何者でもないです。

引用RP者は甘えていないか

ただし、引用RP者は、この原作者の行為に甘えてはいけないと思います。引用RP者はこの流れにおいては従者でしかないのです。
かまってちゃんも許されるのは、一度までです。
短い時間のやり取りで建設的な流れに行かない、理不尽な甘えに展開するのであれば、いつでも原作者にネガティブなRPをされたとしてもおかしくないでしょう。
むしろアイドルのアカウントだとしてみましょう。こんな個別の絡みをいただいたら、コメントをした側はどんな思いを抱くでしょうか。
・こんな僕の引用RPまで見てくれている!
 ↓
・まさか…この人ほんとうは暇なんじゃないか?
 ↓
・いや、僕はきっと特別な存在なんだ
 ↓
・だからこのやり取りに返信をしてもいいんだ
こうやって、引用RP者はどんどんと甘えていきます。

もしあなたがアイドル事務所のマネージャーだったとして、この引用RPについては指導を入れたほうがいいと思います。
もしあなたがアイドルだったとして、即座にこの引用RPを引用して「このひとどう思う?」と一言、投下してあげたらいいのではないかと思います。
なぜなら、この手の「かまってちゃん」を放置することで、あなたのアカウントは引用RPの通知に悩まされ、アイドルのソウルジェムはどんどん濁っていきます。逆に健全なファンを育成する意味で「この人どう思う?」という「晒し」に耐えられないようなことを言っているのであれば、それはその社会における社会人として不適切、つまり反社会的な行為を働いているということにほかならないからです。
貴方のSNSアカウントは貴方の人格を投射します。貴方の人格そのものではないですが、もしそのアカウントが貴方の人格やストレスになるようであれば、そのアカウントは無い方がマシですし、そんなフォロワーは消えてなくなってもらったほうがいいでしょう。ブロックするか、ミュートするかでいえば、まずはミュートでいいでしょう。彼らは貴方にとってはお客さんのように見えるかもしれませんが、過剰に甘えてくる相手はお客さんではありません。適切な距離を取って、適切な対価や関係を設計できてこそ、お客さんなのですから、危害を加える存在であってはならないでしょう。


引用RPに引用RPを重ねる人々

上記の弊ポストやディスカッションの例であれば、もともと是々非々な話題を踏まえて動画を投下しているので「その意図がわかっていただけているならわかる」、という高度なやり取りになります。
また何か話題になっているツイート、つまり多数のRTがされている話題の動画に祭りのようにツッコミを入れたい気持ちもわかります。
しかし自分の発言には責任を持っていきましょう。

間違えても、引用RPに引用RPを重ねるようなことは、おすすめしないです。時々、土曜日など、政治や行政に対する批判で、床屋談義のような引用RTが繰り返されているおじさんたちおばさんたちがいらっしゃいますが、そこは地獄の一丁目どころか、単にリテラシーがない人々の賽の河原での石の投げ合いでしかないように見えます。私がそう見えるだけで、実は彼らは「有意義なディスカッションが行えている」と考えているのかもしれません。
代議士さんや政治団体の方々はそのような主張があってこその弁士ではあると思うのですが、議会でもなく議事録にも残らないようなところでディスカッションをすることは、マイクパフォーマンスなんでしょうか。やっぱり僕にはわかりません。作家なので、他者の正義感で作品を汚されたくはない。

原作者のメンタルに刺さる例

原作者が元気なときは特に問題はないのです。今回の私の例のようにオフラインでものすごく忙しく接客していて、しかもみんな楽しそうにしていて、心に勇気をもらえる状態で、眼の前に現実やエビデンスがある状態なら、いくらネットで引用RPなどされたとしても、メンタルを強く保つことができます。
一方で、こんな引用RPを、徹夜で製作作業している最中や、寝られずにふと目覚めてしまった深夜早朝に見たらどうでしょうか。

今回の私も(ちょっと暇なときに見てしまったので)ウッと来ました。
一生懸命やっている私を「小学生ごっこ」と批判されたように見えたのです。日本語には主語がありませんし「小学生を遊ばせるように見える」という言葉は、本当にそうでしょうか(ちょっと危ない気もする)。「俺には見えるってことだが」という一行がなければ、明らかに批判であり、攻撃的にも見えます。

私はこういう攻撃を「毒矢」と呼んでいます。
毒矢は原作者に向いているのかどうかはわかりません。
多くの場合は社会に向けて放たれていますが、時々、ものすごいタイミングで原作者の背中や脇の下あたりに刺さるのです。

まともな会社員などであれば、毒矢が当たらないように努力や配慮をし、脇を固めていく努力もあると思いますし、そういう努力をしていらっしゃる社会人も多くいらっしゃいます。しかし世の中にはいろんな障害を有するかたもいらっしゃいますし、認知的なバイアスもあります。たとえば「会社の同僚」とタバコ部屋で会話しているような日本語をクリエイター本人にぶつけることは出来ますでしょうか?家族や夫婦でテレビ番組や映画を見ているときの感想で夫婦喧嘩になったことはないでしょうか?(僕はよくあります)仲がいいからこそ、使える日本語というものがあり、「会ったこともない人に向けて正義感をぶつける」という行為がいかに「正義ではない」ということを想像してみていただきたいのです。
さらにクリエイターの多くは日々全力でクリエイションの情熱を投じていて、そういう認知的なバイアスや視野狭窄も多く起きていることがあります。睡眠不足などもそのようなバイアスを引き起こし、ときに悲しい事故を引き起こすことがあります。
一般的には1日に4時間半ほどしか眠らない睡眠不足が5日間続くと、うつ病や統合失調症などの患者に似た脳機能の変化がみられ、不安や混乱、抑うつ傾向が強まるという研究もあります。ショートスリーパーでも元気な方々はたくさんいらっしゃいますが、クリエイターの中にも「8時間しっかり寝ないと精神が保てない」という方もいらっしゃいます。そのような状態の方々がちょうどタイミングの良くないときにこのような毒矢を受けると、うつ状態からの自死(希死念慮)を抱くことがあります。希死念慮の状態になると、「ついうっかり事故で死んでしまってもいい」という状態を望むようになり、更に進むと「勇んで死に至る行為」をします。Xの上で過激なことを書くことも正しい行為に思えるようになり、さらに「これはひどい、徹底的に調査して裁かれるべきだ」といった原作者応援の引用RPの1行も、「応援の1行」も真逆の意味、つまり「私への攻撃」に見えるようになります。希死念慮という死神が大きく鎌をふりかぶる状態が始まる、非常に危険な「毒矢」になりえるのです。

もしあなたが、そのような「毒矢」や希死念慮を抱いたときは、「そもそもTwitter(X)というSNSというのはファンサービス程度にやっておけばいいのであって、ファンサービス程度に捉えられないようなメンタルであれば、ログアウトするなり、スマホの電源を落とすなり、スマホをブチ折るなり水没させるなりしてメンタルを十分に高く保つべきだ」とトイレの壁でも貼っておくことをおすすめします。
いちばん簡単にできる努力は「スマホの充電を入れずに睡眠を取ること」ではないかと思います。電源を入れさえしなければ、死なずに済みます。

東日本大震災が起きて以降、我々はTwitterとスマホを「防災グッズのひとつ」として信頼しすぎています。しかし現在のXはそこまで震災などの減災には役立ちません。十分な電池の予備があればいいのです。寝ましょう。


そうでなければ、作家として作品に昇華すべき。

私は作家のはしくれなので、Twitterでの炎上は作品に組み込んでいきます。単なる炎上狙いや、原作やコンテキストを読めていない輩は有料ブログに掲載することで資料化します。もちろんそのためのメンタルが鍛えられている必要があるのですが、リアルタイムだろうが、将来の作品のネタだろうが作品に昇華すべきでしょう。

あなたが生きていれば、作品にできるのです。

しかし今回の件では、原作者がお亡くなりになっています。
きっと本当に我々が想像できないような、何か複雑な状況や事情、そして魂のぶつかり合いがあったのではないかと想像します。悲しいです。

「希死念慮」。
この言葉の本当の辛さを知っている人は、わかるのではないでしょうか。
僕は、何度か希死念慮を味わったことがあります。しかもTwitterで。

あなたが同じ引用RPをぶつけられたら耐えられますか?

深夜早朝に引用RPを使って誰かを攻撃している方々。
同じ言葉を、同じ引用RPを自分がぶつけられたら、耐えられますか?

それが自分がふっと目を向けたスマホの通知に表示されたとき、
絶望の気持ちや怒り、慟哭を感じられませんか?

あなたが汚いつばを吐いたとしたら、それは天に向かって吐いてください。
あなたの読者はそれを読んで同調したり喜んだりするかもしれない。
でもそれはあなた自身の評価をこれっぽっちも上げない。
原作者を傷つけているのは他でもない、あなた自身かもしれない。

意見を言うな、という話ではないのです。
感想を持つな、という話でもないのです。
でも、その毒の唾吐きは、原作者の精神や生命を死に至らせる、
そういう行為であることは、頭の片隅に入れておいてほしいです。

悲しい結末、なんて来ていない。

そして今回の「セクシー田中さん事件」、報道やX上に書き綴られている「悲しい結末」みたいな書き方も違和感があります。終わっていない。
自分の作品によって原作者が命を断つなんて
これは事故でも必然でもなく事件。
私がもしこんなことになったら、遺族や関係者は法の場で、徹底的に調査して、再発防止を世間が認識してほしい。日本語の世界では二度と起きてほしくない。

そして冒頭で紹介した日テレの報道ですが、おそらく契約上も、その履行上も、何の問題も、なかった可能性があります。認識としてはもしかすると「すでに放映が終わった作品」であり、「原作者とは良好な協力関係にあった」という認識なのかもしれません。

作品によって命を経ったその原因は、他でもない「Xでの引用RP」であるという事に気づいている人はそこまで多くはなさそうです。


Twitter社が問題なのか、引用RPで他者の威を借りて他者を攻撃する者が悪いのか。
被RPされる見えない後者がどんなメンタルになるか。
想像してみてください。

自分は今日を境に、「プロのツイッタラー」になったので、
プロとしての自覚と、自戒と、そして啓蒙を書き綴らせていただきました。

標語っぽく書くと

「ちょっと待て、その引用。
 深夜の作者に届いてる

という認識を持ちましょう。

作家のテクニックとしてのまとめ

・主張があったらブログに書こう
Twitterは長文も書けるようになったし編集もできるようになった、でもその思いを深めるのではなくて拡散させるぐらいの効果しかない。

・引用RPは毒矢
ありがたいことは殆どない、何かバズってしまったら、忙しいときは迷わずミュートした方がいい。

・経過を書き残しておくとよい
何かバズってしまった、もしくは賛否両論や是々非々がある話題に火がついてしまった。削除するぐらいなら、その経過や思いを書き残しておこう。

・引用RPをする誰かに向けたマインドセット
彼らは弱者。彼らは共感してほしい。彼らは原作者がそんな言葉をぶつけられても耐えられると思っている、その一方で自分がぶつけられたら耐えられないようなことを言っていることすらある。

・反論はしっかりとぶら下げておく
引用RPするものは、その下や前後といったコンテキストを読んでいない。「読んでいないものが何か引用RPして主張したとしても、せいぜいその程度の認知理解しか無い」、そう思うとマインドセットを強く保てます。

・著作者人格権がツイートにもあるはず
スクリーンショットでもブログの記録でも何でもいいので、傷ついたことがあったら証拠を残しておこう。ブログに貼り付けてみるのもいい。あなたのタイムラインのみんなに助けを求めてみるのもいいかもしれない。応援する側の人は、そのバズりを応援するのではなく、引用RPにも目を向けてみよう。

以上です。

これ以上、引用RPで犠牲者が出ないことを祈ります。

※文中のAmazonリンクはアクセス解析のために利用しています。
我々ができることといえば、原作者の売上に貢献することぐらいしかないので。

著作者人格権は死んでしまうと、消滅します。
著作権は死後も有効なので。

漫画家の芦原妃名子さんの死に触れ、悲しみと、
作家としての怒りと、そして遺された者がすべき、
作家としての闘いとしてこの原稿を公開します。


この原稿をより多くの人に届けてください。

追記: 共感できるご意見など

共感します
多くの人が正義や正論を言うことで、
原作者(ツイートの原作者)がいかに精神を消耗するか、ちょうど同じ話をまとめていました。
榊正宗さんが生きていてくれてよかったです~!

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