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自我と離れると、言葉の質は高まるらしい

先日参加したリトリートで、出会ったばかりの人から
「仁美さんは、とても内面の美しい人だと思う。でも隠した方が自分に都合が良いから、あまり人には見せないようにしてる、、気がする」と言われたことがありました。

こうした本質的なものに踏み込んだ発言を、コーチングの世界では「核心を突く」と言ったりします。

かなり核心を突かれて私は動揺してしまい「オホホ・・あなた様は、ご想像が豊かでいらっしゃる・・」と悪代官のような返しをしてしまいました。時代劇の見過ぎですね。

核心を突いた言葉には、非常にインパクトがあります。

私は一時期、核心を突いた言葉を言い放って「仁美さんスゴ~イ!」「やっぱり仁美ちゃんはいつもいいことを言うなあ~さすがだよ!」とみんなから褒めてもらいたいと、隙あらば核心を突いた発言をしようとしていた時期がありました。

しかし核心を突くというのは意識的に狙って言っても全くできないもので、逆に「うまいことを・すごいことをいってやろう」という意識から完全に離れた時にできるようです。

というのは「仁美さんのあの時の言葉で、本当に助かったよ」「仁美ちゃんのあの時の言葉、すごく響いた」と言って頂く数少ない体験は、ほとんど言った本人である私の記憶にないからです。

「わたし本当にそんなこと言った?」
「誰か違う人と間違えてない?」

そう言っては、せっかく感謝してくださっている方を困惑させることしばしば。。
私が彼らに何かしらの影響を与えたらしいその言葉は、決してすごいことを言おうと狙っていったのではなく、まるでどこかから降ってきた言葉を、何の加工もなく私の口を経由してその場に出せたときのもののようでした。

文章でも、最後の校正時に大切なのは「自分の気に入っている文章を削除すること」と言われています。
文章の先生に「なぜ気に入ってる文章はダメなんですか?」と聞いたところ「気に入っているというのが問題なんです」と禅問答のような返しをされたことがあります。

人にすごいと思われたい。モテたい。やっぱりあなたは素敵ね、最高だワ!
文章を書く人はみな、そう言われたくて筆をとっているはずです。・・私だけじゃないはずです。

しかし矛盾していますが、そうした書く動機すら完全に捨てされたときに、読む人の心に響く文章というのは書けるようです。

自我の全てから離れて出てきた言葉だけが人の心に届くのは、話す時も書く時も一緒なのかもしれません。