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選択肢が複数あることで、人は自由になることがある

先週末、お昼すぎに用事が終わったのでそのまま近くにある沖縄料理屋さんでランチ定食を食べることにした。
味はもちろん美味しいけど、私はそこの明るい女将さんの接客が好きで、たまにいく店だった。

13時半ごろお目当ての店に着き店内に入ると、厨房からスタッフと思しきおじさんが出てきた。おじさんスタッフはぶっきらぼうに「1名様?カウンターね!」と言って一人掛けの席を鼻で示した。

店内を見渡すとカウンター席の他に、4人がけのテーブル席が4つあって、そこに誰もお客さんはいない。カウンター席では年配の女性が沖縄そばをすすっていて、その人の真横に着席した。

もしこれが12時前くらいで「これから混むかもしれないので、カウンター席でもいいですか」と一言あれば私も納得しただろう。
でもランチ終了も近い閑散とした広い店の狭いカウンター席で、知らないお客さんと身を寄せ合うように過ごさないといけない理由が、わからなかった。

店を出たあとも釈然としないまま隣駅で用事を済ませ歩いていると、ふとお気に入りの喫茶店の看板が目に入った。
この店はコーヒーも美味しいけど、店員さんが陽気な人たちで、このエリアにカフェは数あれどつい入ってしまう店だった。

先ほどのことでモヤモヤしてたこともあり、ゆっくり喫茶店のドアを開けてみる。
店内は賑わっていたが、私が入店したことにスタッフさんはすぐ気づき「いらっしゃいませ、お好きなお席どうぞ!」と声をかけてくれた。

店内を見渡すと、窓際のテーブル席とカウンター席が1つずつ空いている。カウンター席に座ろうとしていると、店員さんに「どうぞ、テーブル席空いてますよ!」と勧められた。

遠慮がちに「いえ、混んでますし・・」と返すと、店員さんは笑いながら「大丈夫ですよ、早いもの順ですから」と答えてくれた。勧められるまま窓際のテーブル席に座って外の景色を見渡し、秋の気配を吸い込んだ街の紅葉を見ていたら、気づけば先ほどのモヤモヤはどこかへ消えていた。

人は基本的に、自分のことは自分で決めたい生き物だ。
ある実験では部屋から出ようとしない子どもに「外に出なさい!」と言うより「外に出ても、そのままその部屋にいても、どっちでも良いよ」と言った方が、子どもが部屋を出る確率は高くなるらしい。

選択肢を示されると楽になると言うのは文章も同じで「あなたはこれをやるべきです」と書くより「これをやってみると良いのではないでしょうか」と、決めるのは読者に委ねるという書き方をする方が、読んでる方は受け取りやすい。
メニューが1つしかないレストランよりも、松竹梅と高いコース・安いコース・その中間のコースと、3つくらいメニューのあるレストランの方がお客さんが入りやすいのも、同じ理由だと思う。

今回は「カウンター席ね!」ではなく「カウンター席でも良いですか?」と言った方が、お客さんも納得してカウンター席に座ってくれるんじゃないだろうか。

選択肢をいくつか掲示する。Aを選んでもBを選んでも、場合によってはCでもええんよ、と言う態度を取ることで、人と人とのやり取りはグッとスムーズになる。

もしかしたら「どちらでもいいよ」というフレーズには「AでもBでも、どんな道を選んだとしても、私はあなたの選択を受け入れようと思っている」という、思いやりの意思表示が含まれているのかもしれない。