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電車を止めてしまった私が、畑仕事を始めるまで

先日三重県の津市に行きました。

楽しい時間を過ごし津駅から名古屋駅に向かおうとしたところ、なんと逆方面の電車に乗ってしまいました。
乗ってすぐに気づいたので津駅に戻るべく、次の駅で下車しようとしたのですが、そこで思わぬトラブルに。

東京都内ではSuicaやPASMOといったICカードを改札にタッチすればそれで電車に乗れるのですが、名古屋JRでは現金のみしか扱えない区間があり、私はうっかりその区間にSuicaで駅に入場してしまったのです。

電車を降りようとすると電車の車掌さんに呼び止められ、電車内で現金精算をしなければいけないということで、電車はその駅で一時運行停止となりました。

焦っている時に限って小銭をばらまいてしまうのは、なぜなのでしょうか。。

私の精算処理を待っている間、電車は止まったまま。
他の乗客の皆さんに本当に申し訳なく、私はただうつむいて早く精算処理が終わるのを祈ることしかできませんでした。

実際に電車を止めてしまったのは時間にして1分くらいだったと思うのですが、体感時間は2時間強。

精算が終わるや否や電車から飛び降り、向かいのホームで津駅に戻るための電車を20分待ったのでした。。


ふだん自分の慣れ親しんだコンフォートゾーンで過ごすのは、とても心地よいです。ICカードをピッとかざすだけで電車に乗れる、冷たくて美味しいペットボトルのお茶が買える。
でもたまにこうした旅先のトラブルに遭遇すると、生きる力みたいなのが試されているように思います。

昨年友人とキャンプをしたとき、小岩がゴロゴロ転がっている地面の上で睡眠をとりました。もちろんマットを敷いたのですが翌朝は腰が痛く、ふだん使っているベットの有難さを知りました。

都会に住んでいると、大抵のことはお金で解決できます。
しかしICカードを使えない電車に乗ってしまったときの精算処理だったり、キャンプで寝るときの床事情だったり、たまに非常トラブルを体験することで、日常の有難さを感じたりします。

先日、日本の食糧事情に詳しい方にお会いしたときに

「現代では食べ物はスーパーやコンビニに行けばすぐ手に入るけど、本来食べ物はすぐに手に入るものではない。
米や野菜は季節や天候に左右されながら、長い期間を得てやっと実るもので『食べ物はお店に行けばすぐ手に入る』という考えは、非日常の時に危ない」

というお話を伺いました。

食材を手に入れることも、調理すること、そしてそれを頂くというのは本来、膨大な人の想いやエネルギーを受け取るということです。

しかしふだん慣れ親しんだルーティンの中で生きていると、あまりに快適すぎて食べることも生活を営むことも何もかもが当然のように感じることがあります。

今こうして私が当たり前の暮らしを送ることが出来るのも、水も電気も、電車に乗れることも、多くの人の努力によって成り立っている。
そうした生活の営みを他人に委ねすぎないようにするのは大事なことだなと思いました。

・・前置きがすっかり長くなりましたが、そんなこんなで反省した私は、非常に対応する力をつけるべく、この秋から畑仕事に挑戦してみることになりました。

ヒョロヒョロのもやし女子が、土に触れることで生きる力をどう取り戻していくのか。
続きは長くなりそうなので、またこのnoteの方にレポしていきますね。