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「はい論破!笑」と真逆のコミュニケーションを目指して

自分の意見を一方的に話して「はい論破!」と会話を終わらせたり「でもそれってあなたの感想ですよね?」と相手を黙らせるのが、小学校などで流行っているらしい。

さすがに社会人に出ると突然論破されるということはないけれど、私はなぜか一方的なフィードバックやアドバイスを、頼んでもいないのにされることが多い。
社会的に見るとヒョロっとした若い女性であり、言いたいことが言いやすそうな容姿であるからだろうか、道端で知らんおっさんから説教されることもたまにある。

フィードバックやアドバイスするとき、相手を土台に言いたいことを言ってただ気持ちよくなりたい人は、そうした感情を隠したつもりになっていても受け手には一瞬で伝わってしまうものだ。

行動の評価と相手の存在価値という本来全く違うものを巧みに一緒にしながら「君のことを想って」と攻撃をしている場面を、社会でよく見る。
まあ、これは受け取る筋肉の弱いわたし独特の視点とも言えるけれども。

普段マッサージを受け慣れていない人・久しぶりに受けるという人から強押し希望と言われても、プロはむやみに強く施術しないようにしていることが多い。もみ返しといった副作用が起こる時には起こるからだ。

同じように、人に何か大切なことを伝えるときは、相手の受け取る力について推し量りながら、自分の伝える力を過信し過ぎないのが望ましい。

一般的に、強い言葉を発する人は目立ち、そして痛みに弱い人というのは強い人からしばしば嘲笑の対象となりやすい。
しかしこの痛みに強い・弱いというのは生まれつき体毛が濃い・薄いというのと同じように、本来上下をつけるものでも比べるものでもないと思う。

詩人の俵万智さんは「言葉は本来、お互いが分かり合うためのものなのに、相手を言いくるめて言葉でやっつけてスカッとするのは、言葉の使い方としてもったいない」と言っていた。

一方で、あまりに相手を小さくみくびったり忖度をして、当たり障りのないことを言うのもそれはそれで平和だが、現実に起こっていることはきっと大きくは変わらない。

相手とつくっていきたい未来がある。二人で力を合わせて歩いていきたい場所がある。

その願いから生まれた言葉はきっと痛いこともあるだろう。
でも受け手はその痛みが引いた後、伝えてもらった行動に対して「ちょっとやってみる」という本来なかったはずの選択肢を選ぶ時が、いつか来るかもしれない。盆に返ることのない覆水はいつか空に還り、やがて雨となって誰かを救う。

相手を、武器も防具もなしに見る。この瞬間、ただ見る。

難しいけれど私もいつか、目の前の人の心と自分の心が糸電話でつながっているようなやりとりを、誰かと出来るようになりたい。