竹内芳郎著『サルトルとマルクス主義―『弁証法的理性批判』をめぐって 』読後覚え書き

・サルトルの『弁証法的理性批判』の解説。おそらく著者の恣意的な解釈が多分に含まれている。

・解説の癖に途中からマジで何言ってるかわかんなかった。

・マルクス主義の要である史的唯物論は自然弁証法を基礎とする理論だけれど、その自然弁証法は自然科学とは乖離した単なる思想的なイデオロギーでしかなく、よって史的唯物論も客観的に歴史を全体化できるという認識はそもそも間違いであり、実証主義的なものではない。そのため、従来の考えではマルクス主義に限界があると考えたサルトルが理論の発展を試みる。

・サルトルは自身の唯心論的な世界観もあらためている。
例えば「ある女性工員が彼女の選択により養うことの不可能な子供を堕した場合、一見それは彼女の自由意志による選択(実践)に見えるが、それは偽装された事実であり、その選択は彼女の所属する社会階級により既に実行されたもの(惰性)でしかない。」ということ。社会や組織によって個人の自由な選択は制限される。
この考えは面白いなと思った。例えばポストフェミニズムにも通じる考えで「ジェンダー間の平等は達成され、あなたにはいくつも選択肢があった、そしてあなた自身がそれを選択した」というのは偽装されたものである場合も多い。それは彼女の自由意志ではない。

・上の問題は共産主義社会にも起きる。革命が成功した後にその環境を持続するため組織というものが維持される。それは資本主義のシステムと同様に組織が個人の自由な選択を制限する。

・ここから詭弁が始まり個人的に本に対して興味が失せてくる。要は同じように見えるけど思想の面で資本主義の組織とは違って個人の自由意志は担保されるという観念論的な講釈が始まる。それは社会や組織は互いの暴力によって維持され、悪い暴力はテロルだが、良い暴力、つまり粛清は友愛のひとつの形ということで落ち着くらしい。意味がわからん。

・本では資本主義に対する批判がされ、相対的に共産主義を持ち上げるような描き方をしている箇所があった。個人的にはそれもよくわからない。共産主義は社会システムの一つの形であり、二元論的な意味で資本主義の対極に存在するものではない。資本主義が悪いからといって共産主義の正しさが証明されるわけではない。

・1965年の本なので共産主義やマルクス主義のその後の解釈は知らないけど。とりあえずこの本読んで思ったのは共産主義の思想やシステムというものには矛盾が溢れておりそもそも破綻した理論なのではないかと。

以上

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