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断捨離。

久しぶりに実家に帰省し、のんびり過ごそうと思っていた週末。ありがたくもご飯は上げ膳据え膳で、母親が次から次へと、これは食べるか❓あれは食べるか❓とすすめてくるので、特に外食する必要もなく、変わらず「お家で過ごそう時間」となった。

両親もいい歳になったが、帰る場所がまだあるということで、これは本当に恵まれているのだが、どうにも家の中が落ち着かないのだ。

長年離れて暮らすようになると、動線を考えて配置されてない家具や、もう使わないであろう、食品の空き容器やビンが洗われた状態でキッチン周りを占有し、洗い物をしようにもなんだか手狭。

食器棚には正月に毎年取り寄せる漬物だかよくわからない、おんなじ形をしたタッパーが3つも4つも、いや、7つも8つも出てくる始末。そしてそれは、それだけではなく、他にも同様にか弱いプラスチックの入れ物がやっぱり棚の中心に所狭しと仕舞われているのである。

むかーしから、「勿体無いからとっといて」と言っては何年も家のすみで眠らせ、数年経って気がつけば、洋服はシミになるし、読まない本だって茶色くてんてんが増えている。庭付き戸建ての家だが、ごくごく普通の田舎の一軒家である。栗の木やら杏の木やら柿の木やらみかんの木・・・育つのがわかっているのに間隔を空けずによくわらない配置で、帰省するたびに何かの「木」が一本、また一本と増えているのだ。このままではいつの日か木の屋根に覆われてしまう。

脳みそに少しずつ植えつけられる、「なんだか住みにくい」が、どうしても大きくなっていく・・・

これでも私が嫁に出るときには、随分と断捨離したのである。

「できちゃった双子」で先に嫁いだ姉は、3人の子育てに終われる毎日で手一杯だし、年の離れた妹は自由人で、今は島暮らしのためそう簡単には帰ってこれない場所に住んでいる。

そんなこんなで、数年前からせっせと次女の断捨離計画が実行中なのだ。

だがしかし、そこは自分も母の娘。「片付けたいが片付けれられない」というDNAは受け継がれているし、気を抜くとこれまた頭だけで考えて手が動かなくなる「めんどくさい」モードに入るので、気をつけなければならない。

あれこれ考えるこの余計な時間が「ものにエネルギーを吸い取られる」という本当に勿体無いことなのである。人生は選択と集中の連続で、考えるのは良いが迷っている時間はない。生きてく上でなるべく重要なことや新しい何かを生み出すことの方へエネルギーを注いでいたいのだ。

より良い選択をするためには、一日の決断の回数は減らす必要がある。

本や服が趣味の人もいるし、何かのコレクターだってそこには愛があるから、ただただものを減らせば良い、というわけではない。ただ、「不要」だと思う余計なものに囲まれて過ごす生活はさっさと手放し、身軽な生活を心がけ、良いタイミングが来たと思ったら、いつでも手や足が動かせるようにしておきたい。

「チャンス」はみんなのそばにいつもいる。

ただし「チャンス」が横切ってから準備をしていては遅いのだ。スルスルと容易に逃げられてしまう・・・

「チャンスが近づいてきている」

それに気がつくか、気がつかないかは日頃の準備が大事なのである。


終わらない断捨離生活は続く・・・










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