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アドレナリンとドーパミンの交錯点・日本中央競馬会

入場券をもぎり、ゲートをくぐると、足の長さが揃ったターフが眼前に広がってくる。

微風になびく「たかが」ターフはどこまでも続いており、見る人の心を高揚させる。

そう、ここは東京競馬場だ。

東日本大震災の復興を願い、「キズナ」名付けられた一頭のサラブレッドがダービーを勝ったその日、僕は母親からの仕送りを握りしめ、そこに立っていた。


マツリダゴッホ、単勝9番人気の激走劇


人並みにギャンブルをする父の影響で、日曜の午後は競馬の時間だった。

父はよく「マクドナルドに行くぞ」と僕を連れ出してくれたが、それは彼が場外馬券売場に行くための体のいい言い訳だ。

最寄りのマクドナルドまで高速道路で20分の田舎で生まれ育ったために、兄弟にとって「てりやきマックバーガー」は週末のみ許されたご馳走だった。

愛する我が子にご馳走を振る舞うという大義名分を掲げ、父は馬券を買いにく。弟と妹を連れていかないのは、父が馬券を買っている間に駄々をこね、それを母にチクるからだ。

当時の僕は、車内で待っている間、父が何をしているのかを知らない。分かっているのは、いつもスポニチを持っていることだけだった。

車の中でおとなしくしていた理由は、弟より2歳、妹より7歳年上だったからではない。実は、マクドナルドが食べれるからでもない。誰にも邪魔されずに新聞の“成人向け面”を見れるから、それだけだった。

父は競馬面しか持ち歩かないことを知っていたので、つまり車内には見たかったページが置き去りになる。それを知っていたために、外出時に限っては立派な長男を演じていた。

父の遠征に帯同して数年が経った頃だろうか。父は僕に、競馬とは何かを教えてくれるようになった。そして、軍資金の中から僕の予想枠を用意してくれるようになった。

レースに出走するおよそ18頭から、レースを制する一頭を選び出す。もし予想が当たれば、何か好きなもの(コンビニ菓子レベルだが)を買ってもらえるゲームだった。

そのゲームはシンプルに楽しかったし、たまに当たることもあって、それに熱中するようになった。1番人気よりも3番人気の方が勝率が高いということも、小学校2年生で覚えた(実際そのようなデータは存在しない)。

大人の世界に連れ出してくれたのか、それとも「来なそうで来るヒモの一頭」を素人のインスピレーションに委ねたのか、理由は分からない。

ただ、一つ言えることは、報酬のあるゲームは小学生であっても虜になるということだ。僕はより一層、真剣に予想をするようになった。

2007年、冬。冷え込む寒さを車の暖房で凌ぎながら、ゆく年最後の大勝負、有馬記念の予想をした。僕が単独指名したのは、9番人気のマツリダゴッホである。中山競馬場が得意ということ、あとは名前がかっこいいという理由で指名した。

父は「そんな馬は買ってもしょうがない」と言って、馬券を買ってくれないそぶりを見せた。しかし、絶対に勝ち切るように思えた。バイアスがかかっていない少年の目には、マツリダゴッホの激走がたしかに見えたのだ。

2007年の有馬記念には、ダイワスカーレットとウオッカという、のちに歴史に名を残す最強の牝馬も出場していた。ただ、それらの人気を抑える強豪古馬も複数出走しており、いま思えばマツリダゴッホが勝ち切るようには思えない(実際、競馬を理解したいまだったら買えていない)。

しかし、マツリダゴッホは激走した。絶好のポジションで脚をため、4コーナーの終わりで先頭に立つと、直線でさらに加速。ダイワスカーレットの追撃を振り切り、見事に初GIタイトルをその手につかんだ。

車に流れる「なんとマツリダゴッホ、ゴールイン!」という実況を、全身から熱が湧き出るような感覚を、今でも鮮明に覚えている。

レースが終わると、父は僕に5,000円をくれた。単勝は52.3倍(つまり5,230の払い戻し)だったから、そのほとんどを僕にくれたことになる。

この日から、「予想が当たれば何か好きなものを買ってもらえるゲーム」ではなく、「競馬」の虜になった。

横手のジャスコから、府中のターフまで


ジャスコとサティ(つまり、夢と夢の間)
に挟まれた場外馬券売場しか知らない僕にとって、初めての競馬場は格別だった。

そこに立つだけでドーパミンが溢れ、アドレナリンが湧き出た。興奮と幸福が同時に分泌され、ターフを見つめながら直立不動になるほどだった。マツリダゴッホが先頭でゴール番を通過した、あのときによく似た感覚だった。

ダービーの発走は15時40分。しかし、まだ朝の11時。

自由席を確保してから、競馬場をぐるりと一周し、すでに恍惚の表情でワンカップを吸っている(飲むのではなく「吸う」)大先輩に敬礼する。競馬という紳士のスポーツに、自身の生活を脅かしてまで、数十万円、数百万円という大金を注ぎ込んできた彼らに畏敬の念を抱きながら、その時間を待った。

ダービー、またの名を「東京優駿」は、いうなれば“夢の頂”だ。

サラブレッドは生涯に一度しか出走することができず、騎手が一生に一度でいいから手にしたいタイトルであり、競馬ファンの夢でもある。

デビュー当初から天才的な騎乗センスを見せ、競馬界の未来を担うホープとしてファンからの絶大な信頼を得ていた武豊でさえ負け続けていたレースだといえば、どれだけのビックタイトルかが伝わるだろうか。

通算2864勝(22年2月20日時点)を誇る日本屈指のジョッキー・横山典弘が、デビューから23年目にダービーを勝ったときの「まさかこんなに早く勝てると思っていませんでした」という発言を紹介すれば、このレースの凄みが伝わるだろうか。

いや、そんなことはどうでもいい。ダービーがいかにすごいレースかを説明したいわけではない。

「万哲の乱」という人生のバイブル


平場のレースで軍資金をすり減らし、迎えた15時40分。ファンファーレが鳴り響き、ゲートが開いた。

キズナは道中の後方で、ライバルたちの姿を遥か前方に見ながら足を溜めていた。直線に入ると外へ持ち出し、満を持してのスパートをかけた。そして、わずかな間隙を突き、先頭を走るエピファネイアを半馬身差で交わした。

東日本大震災からの復興へ向けて「心をひとつに」という思いを込めて名付けられたサラブレッドが、強烈な末脚を炸裂させて栄冠を勝ち取る——。できすぎたストーリーだが、やはり心を打たれた。

外から鋭く弾け飛ぶ青鹿毛の弾丸とそれを導く武豊は、国民の夢を背負っているようにも見えた。

しかし、だ。私が握りしめている馬券には「エピファネイア」の名前が刻まれている。

秋田生まれ・スポニチ育ちの僕にとって、一挙手一投足を規定する「もっとも濃い教え」は、小田哲也記者の「万哲の乱」だった。万哲の特徴は「アッと驚くような買い目」にある。つまり、王道を嫌う。

放任主義の家庭に育った僕にとって、しいて教典があるとするならば「万哲の買い目」だった。大勢の中の一人であることを嫌い、アウトローとして異彩を放て。だから僕は、1番人気のキズナを頭で買わなかった。

母親のパート代から捻出された仕送りで馬券を買い、さらに負けるというハタチの悪行は、自分のことながら心が痛んだ。まだアルバイトもしていなかったことも相まって、心底申し訳なくなった。

しかし、そんな感情はものの数秒で過ぎ去った。眼前をけたたましい足音で駆け抜けていくサラブレッドたちの残像が眼裏から消えず、興奮と幸福に支配されていたからだ。ごめんなさい。

そしてこのとき、気が付いた。もう、勝とうが負けようが、そんなことはどうでもいい。馬券を買う(夢を託すこと、可能性に懸けること)に意味があるのだと。

人生という荒波を泳ぐには、ドーピングが必要だ


“歴代最高のファンタジスタ”の異名を持つ、元サッカーイタリア代表のロベルト・バッジョはこう言った。

「僕が知っているドーピングはただひとつ、努力だけだ」

バッジョはそれしか知らないのだろうが、僕はもうひとつのドーピングを知っている。競馬だ。彼と接点を持つ機会があれば、ぜひ教えてあげたい。

開催の前々日からそわそわし、開催前夜に情報と格闘して、開催当日に想いを託す——。この一連の流れは、ストレス社会を生きぬくために、私たち(ギャンブラー)に許された唯一無二の処方箋だ。

競馬のいいところは、勝ってもいいし、負けてもいいことだ。勝てばお金が増える。負ければお金がなくなる。そして、勝っても負けても、親への懺悔の気持ちを吹き飛ばすほどの興奮と幸福がやってくる。

東京競馬場からほど近い稲田堤が最寄駅だったこともあり、学生時代はよく友人とレースを観にいった。これまで車で20分かけて場外馬券売場に行っていた僕が、いまや電車に10分乗れば東京競馬場に行ける。最高だった。

東京開催がない時期は、中山競馬場に遠征することもあった。もちろんグリーンチャンネルは有料ユーザーだ。

戦績がどうかといえば、点で見ると、よく負けている。線で見ると、もっと負けている。面で見ると、もうよくわからないが、かなり負けている。5.5年間の学生生活で、およそ200万円ほど失ったのではないだろうか。

しかし、ここにきて、“connecting the dots.”が実現し始めている。勝ったときには勝つに値する理由があり、負けたときには負けに値する理由があると知り、改善というものをしてみた結果、わりと生活が楽になるだけのお金を稼げることも増えてきた。

当然だが、この裏でめちゃくちゃ負けている

勝ち馬投票券を自慢したいがために(その裏でめちゃくちゃ負けているのに)話が逸れてしまった。

つまるところ、いつしか競馬は、僕にとって必要不可欠なドーピングになっていた。徹夜をして原稿を書いてしまうような不摂生な生活をしている自分が、明日も頑張るためのエンジンが競馬なのだ。

「ギャンブルはやめたほうがいい」「絶対に負ける仕組みになっている」なんてことも言われるが、そんなことは(今のところ)どうでもよい。だって、勝とうが負けようが、そんなことはどうでもよく、馬券を買うことに意味があるのだから。

原稿を書く手を止め、どうせ当たらない馬券の購入に充てる数時間に、どうせ当たらないレースに釘付けになる数分間に意味がある。仕事以外で我を忘れて没頭できるのは競馬だけだ。

仕事とプライベート、合理性の追求と円満な人間性、善玉菌と悪玉菌。人間という生き物は、おそらく誰でも、バランスを取りながら生きている。

僕にとっての競馬とは、退廃的な生活と執拗な原稿への執着とのバランスを取るための存在だといえる。ただ、対の関係にあるのではなく、嫋やかに連帯している。

簡単に言えば、勝てば集中して原稿に打ち込むための余白ができるし、負けたら「来週も競馬をするために」と原稿に熱が入る。

僕は「仕事は人生そのものだ」と思っている。それほど大事な仕事を支える基盤が競馬である。つまり、僕の人生は「Sponsored by JRA」なのだ。

早くいくなら一人で、遠くへいくなら競馬場へ


人生には、ドーピング、つまりアドレナリンとドーパミンの交錯点が必要だと思う。ドーピングのない人生は退屈だし、ドーピングは良くも悪くも見たことのない景色を見せてくれる。

タレントの坂上忍さんは、年末に“1年分のギャラ”をギャンブルにぶっこんでいたそうだ。その理由を、以下のように語っている。

「僕、そもそもだらしないというか、引き受けた以上、お仕事はちゃんとやらなきゃというのはあるんですけど、もともとそんなに勤労意欲がある方でもない」。

「2つの気持ちがあって、年末に全額いって、勝ったら働かないで済むという欲と、スったらお金がないんだから働かざるをえない。たぶん両方の思いがあって、身ぎれいにしたくなっていた気がする」。

坂上忍、年末に“1年分のギャラ”をギャンブルにぶっこんでいた「独特理由」

多かれ少なかれ、坂上さんには共感する点がある。守るべき家庭があるわけでもなく、贅沢な暮らしをしたいわけでもなく、ただ原稿を書くことにエクスタシーを感じる僕にとって、現時点で宵越しの銭は必要ない。

2年前、開口一番「ライターとかやってますか?」と僕に尋ねた下北沢の占い師に「お金、全然ないでしょ。稼いだ分、ほとんど後輩に奢ってるでしょ」とも言われたが、その通りである。

「浪費ではなく投資をしなさい」なんてこともよく言われるが、知らん。「あとで後悔するのは自分」とも言われるが、知らん。

競馬は僕にとって合法的なドーピングであり、それがなければ生活が成り立たない必要不可欠なものなのだ。

しかし、そろそろ大胆なアクションもしてみたい。何かを変えなければ明日の景色が変わらないのだから、馬券の購入を一度ストップし、軍資金を蓄え、坂上忍的大勝負に繰り出すのもアリだろう。

より強靭なドーピングを求めて、脱・ドーピングをする。仕事でも大きな変化を求める2022年は、それを支えるドーピングでも大きな変化を起こしてみようか。

そして、一年の締めくくりに、この記事の答え合わせがしたい。「僕が知っているドーピングはただふたつ、努力と競馬だけだ」。

Thumbnail image by Jeff Griffith(@grifjef)on Unsplash


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