スーパーで過ごす孤独な時間に、本当の自分が垣間見える
3年前から住んでいる本郷三丁目は、学生街ということもあり、飯が安くてうまい。
上野が徒歩圏内なので飲み屋には困らないし、喫茶店街の神保町も、自転車ですぐ。
祖母がかつて購入したマンションに住んでいるので、住宅環境がめちゃくちゃいいわけではない。それでも「この街を離れるのは惜しいな」と思うくらいには気に入っている。
ただ、少しだけケチをつけるなら、スーパーが微妙。駅周辺に魅力的スーパーがないので、どうしても外食が多くなるし、日常にあるはずの買い物のワクワク感が薄い。
もし「本郷三丁目スーパー微妙問題」が解決されるなら、もう10年住んでもいいのにな、といつも思っていた。
しかし、3年のあいだ解決されることがなかったこの問題に、突如として終止符が打たれることになる。「サミットストア 湯島天神南店(以下、サミット)」の登場によって。
湯島駅と本郷三丁目は、路線は違うものの徒歩で歩ける距離にある。その中間地点に住んでいた僕にとって、サミットは救世主だった。
お惣菜に絶対的な強みがあるだけでなく、小規模ながらインストアベーカリーを備えており、価格も高くない。新店舗なので、お店もきれいだ。
歩いて5分の場所にサミットが誕生したということは、本郷三丁目(特に僕が住むエリア)には欠点がないということになる。まもなく地価が爆上がりしたタイミングで、祖母に内緒でマンションを売却してやろうか。
……話を戻すと、サミットはすごくいい。
安い・うまい・きれいの三拍子で、そこには心躍る買い物体験がある。なんでも揃うわけではないが、それでいい。
電車の中で「帰りにサミット寄ろう」と思うくらいには、生活の一部になっている。
ただ、少しだけ。最近少しだけ、サミットに行くと悲しい気持ちになってしまう。
ある日のことを思い出して、悲しいというか、切ないというか、虚しく、情けない気持ちになる。
夕食どきを過ぎた20:00のスーパーで、20%オフになったお惣菜に手を伸ばすたびに、そこに等身大の自分を見つけてしまうのだ。
そりゃあ、有頂天にもなるさ
スーパーで過ごす孤独な時間に等身大の自分を見つけたのは、2021年の春先、まだ地元には雪がうっすら残っていた頃のこと。
話が逸れるけど、よければ聞いてほしい。
当時の僕には、交際している女性がいた。彼女は中学の同級生で、シングルだが、子どもが二人いる。
中学生の頃も、僕は彼女のことが好きだった。交際関係にもなった。ただ、付き合ってからたったの4ヶ月で振られてしまった。
それから、彼女と会話をする機会は激減した。引き続きクラスメイトだったが、顔を合わせることに気まずさというか、思春期ならではの気恥ずかしさがあったし、そのうちスーパーイケメンの彼氏ができてしまった。
必要があってプリントを渡すときは、それだけで嬉しくなったりしていたが、まあそういうチャンスもほとんどない。そして、進学をさかいに、連絡を取る必要性すらもなくなった。
ただ、高校を卒業して、東京に出てから6年後。
たまたま出張で東京に来た彼女から、「飲みにおいでよ」と電話で9年ぶりの連絡があった。
その日の僕は、有頂天にいるようだった。正直な話、彼女のことを思い出すことなんてほとんどなかったが、「飲みにおいでよ」の一言で思い出が一度にたくさん溢れてきた。
電車でいいのにタクシーに乗り、新宿の安い居酒屋で久々に見た彼女は、当時となにひとつ変わらない。二重の大きな眼、「まぢ無理〜」という口癖、ストレートな物言い。引き続き僕のマドンナだった。
とはいえ、お互い違う地域で暮らしていて、時間軸がまったくといいほど異なっている。その日は「久しぶりだね」で短い一日が終わり、次の予定を立てることもなく解散した。
ただ、時間が空いてから帰省したタイミングで、偶然にも再会する機会があった。二重の大きな眼、「まぢ無理〜」という口癖、ストレートな物言い。以前に見た彼女となにも変わっていなかったが、もう頭が一杯。惚れっぽいところをブチまけてしまった。
それからというもの、戻りたいと一度も思わなかった地元に、予定もなく帰るようになった。時間があれば彼女を誘って食事に出かけ、連絡を取っていなかった時期に、お互い(もしかすると一方的に)どんな時間を過ごしていたかを共有した。
そこで、当時と変わらない気持ちで、いまこの瞬間も彼女のことが好きだと伝えた。しかし、僕がなにを言っても「考えなおしな〜」とあしらわれてしまった。
「理由なく会ってるわけじゃないよ」とは言ってくれていたものの、基本的には僕が一方的に好きなので、熱量が不釣り合いなわけだ。それは、2009年の8月から変わらないっていない。
さて、どうしたものか。「舞い上がっている」と思われている現状を、どうやって覆したらいいのか。
いま振り返れば、その選択も舞い上がっていたゆえだったのかもしれないが、一人で住むには広すぎるアパートを借りることにした。
場所さえあれば、ヒマな時間に寄ってくれるのではないかという期待があったし、「こいつ本気だな」と考えをあらためてもらえる気がしたからだ。
本当はもっといろいろなことを書きたいけれど、本題ではないので、話を端折る。最終的に、彼女は交際の申し入れを受け入れてくれた。
ほとんど東京で時間を過ごすのに、地元ではそれなりの値段がするアパートを借りたことを、いったいどのように思ったのだろう。必要以上に高価な家具を買ったのは、見栄を張っているのだと気付いていただろうか。
勢い任せの行動が、どういう印象に映ったのかは知らないが、呆れながらも本気度が伝わったのではないかと解釈している。そうでもなければ、交際できたはずもない。
とはいえ、そう簡単にうまくいくはずもなく。
結局、二人で会える時間はほとんどなかった。数日間を秋田で過ごす準備をして帰省したものの、会えるのは数時間程度。二人でどこかに出かける余裕もない。
働きながら子どもを育てる生活は、僕の想像以上に忙しかった。子どもと地元に暮らす彼女と、融通のきく僕の毎日とでは、現実が違う。優先順位が、一時間の価値が、生活水準が違う。
ひとりで過ごすには広すぎる自宅で、ため息をつくこともあった。
恋愛ドラマの観過ぎだったのかもしれない
東京に戻る日へのカウントダウンが始まった頃、彼女が「今日の夜、子どもたちをつれて泊まりに行くかも」と連絡をくれた。
普段なら布団に入っている時間だが、飛び起きて、アパートの目の前にある、地元でいちばん大きなスーパーにダッシュする。
缶でいいのに瓶ビール、普段なら絶対に買わないドライフルーツとピスタチオ、店内でいちばん高いステーキ肉を買った。料理人がYouTubeでおすすめしていた、無駄に高いフライパンで焼くつもりで。
でも、都合が合わなくなり、彼女は来なかった。拗ねたわけではないが、ステーキ肉は焼く気になれず、そのまま腐らせた。これも、無駄に高い冷蔵庫の中で。
気が付くのに時間がかかり過ぎてしまったが、やはり「ゆっくり会える時間なんて、そうそうない」。
交際する以前、用もなくふらっと地元に帰ったとき、彼女は予定を合わせて時間をつくってくれていた。いまなら、それがどれだけ大変なことだったか理解できる。
だから、期待するのをやめた。「こっちが現実」なのである。
その日は、食事を取らずに、ひとりで瓶ビールを飲んだ。かなりいろいろなことを考えていたような気がするが、なにひとつ思い出せない。
翌日から、頼まれたわけでもないのに勝手にアレンジしていた生活リズムを、「彼女用」から「自分用」に切り替えた。
朝イチで髪の毛をセットすることをやめたし、一時間おきに部屋に消臭スプレーを撒くのも、自分が好きな食べ物ではなく、彼女が好きな食べ物を冷蔵庫にストックしておくのもやめた。
さて、今日はなにを食べようか。
20:00過ぎのスーパーに、都心なら出歩くのが憚られる、気怠いスウェットで向かう。
夕食どきを過ぎた時間になっても、ステーキ肉が残っていた。でも、ひとりの夕食に、数千円もかけたくない。20%オフのシールが貼られた、売れ残りのお惣菜で十分だ。
精肉コーナーを横目に、お店の一番奥にある、惣菜コーナーに向かう。
惣菜のレパートリーが少なくなってくるが、それでも主力商品がポツリポツリと見つかるし、なにより安かった。大袈裟にいえば宝探しみたいな気持ちで、1,000円もあればわりと贅沢なテーブルになる。この時間はそれはそれで楽しい。
ただ、同時に、悲しくもあった。理想とは違うし、心が躍るということもない。
うきうきしていた昨日の自分を思い出して、寂しくなる。ぐるぐると考え事をしてしまい、食事を買いにきただけなのに、かれこれ20分も店内をうろついてしまった。
彼女のまえで、僕はどうしても、格好つけてしまう。仕事がうまくいっているように見せてしまうし、聞き上手であろうとしてしまうし、人生哲学を語ってしまう。
生活リズムが「自分用」に切り替わったタイミングで、そのことに気が付き、冷静に考えてものすごくダサいことをしていると認識する。
本当は、仕事には波があるし、聞き上手ではなく話したがりだし、立派な人生哲学もない。
20%オフのシールが貼られた、売れ残りのお惣菜を手に取りながら、「ああ、これが等身大の自分なんだな」と苦笑いをした。
苦笑いをした日からまもなく、彼女と会わないまま、東京に戻らなければいけない日になってしまった。結局、彼女と一緒にいられた時間は、合計しても10時間程度だったと記憶している。
結局、その日から数ヶ月間、彼女に会うことはなかった。仕事の都合でまとまった期間帰れない日が続いたし、東京から帰省するのは、コロナ禍のタブー。「どうせ会えないだろう」みたいな諦めもあった。
お互い忙しく、生活リズムも違うので、連絡を取る頻度も減ってしまった。
そして年末には、彼女と相談のうえ、一度の帰省でしか使っていないアパートを解約することになった。なんとなくそうなる気もしていたが、「秋田に帰ってくることもないんだから、別れたほうがいいと思うよ」と話し合って、関係も解消してしまった。
一度でも好きになった人とお別れするのは、その理由がなんであれ、悲しいものだと思う。ただ、今回ばかりは「まあ仕方がないか」と妙に納得していた。
中学校の頃、彼女と仲よさそうに話す男には、フラれた後でも嫉妬していた。「どうして別れると、他人以下になるんだろう」と、保健室で泣いたこともある。先生には「そろそろ帰ってくれ」と言われてしまった。
そんな感じで、ようは不釣り合いであり、美化された思い出を追っていただけなのかもしれない。「秋田に帰ってくることもないんだから」の一言にも、少なくともその時点では的を射ていた。
いまとなっては、(僕にとって特別な存在ではありつつ)よき友人の一人である。
売れ残りの惣菜買って、本当の自分思い出そう
サミットは、すごくいい。
20:00を過ぎても、安くなった惣菜がたくさん残っている。レンジでチンするだけで食べられるシリーズ品なんて、写真映えはしないがめちゃくちゃ旨い。
でも、背伸びしなくていい空気感が、地元のスーパーで見つけた、めちゃくちゃダサい「剥き出しの自分」を思い出させてくる。
意気揚々と秋田から上京したかと思えば、自分都合で大学の卒業を諦め、一度は就職するも、10ヶ月で退職。退職後は自営業になり、自分が食っていける金を稼げれば満足。昼過ぎに起きて、徹夜で仕事をする。そして、また昼過ぎに起きる。
そんな、現在進行形で自由奔放な生活をしている僕でさえ、「剥き出しの自分」になると「自分らしさとはなんだろう」「本当にやりたいことはなんだろう」なんてことを考えてしまう。
見栄っ張りで、格好つけがちな僕にとって、20:00過ぎのスーパーは、東京で唯一の「自分だけの孤独な世界」でもある。
売れ残りの惣菜に手を伸ばすたびに、「剥き出しの自分」を思い出して、「本当の自分はここにいる」ことを自覚してしまう。
田舎育ちの僕にとって、東京は「剥き出しの自分」になる時間が少ない場所だ。
視座を上げてくれる先輩、自分よりよっぽど優秀な後輩がたくさんいて、切磋琢磨できる仲間も少なくない。成功のステージを駆け上がっていくシーンを、間近で見ることもある。
すごく恵まれた環境だと思う。東京には自分が知らない世界があったし、それを広げようと努力することで、知らない世界の一員になれた。
ただ、背伸びをしすぎると、他人の幸せを自分の幸せだと錯覚してしまうことがある。
ナメられたくないという思いから、プロフィールを盛って話したこともある。「5年後どうなっていたい?」という問いかけに、自分が最も感銘を受けた人の言葉で返したこともある。嘘つきだ。
そう考えると、理想の自分とかけ離れていて、吐き気がするようなものだったとしても、「剥き出しの自分」に戻るのは、悪いことではない気もする。ダサさを直視して泣きたくなるようなこともあるが、それもいいんじゃないかと。
カッコつけたくなったら、地面に足がつかないくらい背伸びしてしまいそうになったら、「理想の自分」と「剥き出しの自分」のバランスを取りに、サミットに行こう。
そして、立ち止まってしまうほど恥ずかしくなる過去を思い出そう。
残念ながら、本当の自分なんて、大概そんなものなのだ。
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