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子供がいない私達。

オットとは7年程の同棲を経て色々あって
結局結婚した。

妊娠適齢期と呼ばれる期間の終盤に
差し掛かっていたけれど
二人とも人間をつくっていく根性に自信がなかったり
経済力にも不安があったりとかとか
色んな言い訳みたいなものを集めてばかりで
「親になりたい!」
と考える機会を持たないまま
私が特発性血小板減少性紫斑病(ITP)と言う病気を
患ってしまった。
ITPは妊娠や出産が出来ない病気ではないけれど
妊娠が血小板減少に繋がる事や
妊娠出産に伴う出血が多くなる可能性がある事等で

「通常の妊娠よりリスクはあるし、リスクを減らす為の治療をしながら出産までを過ごす事になる」

と当時の主治医に言われ
オットもオットの家族も
子供がいなくても良くない?
的なムードが高まった。
私も
子供が欲しくてたまらない訳じゃなかったりで
あまり深く考えずに時が流れていった。

今ではあまり大っぴらに
そうした事を言ってくる人は
いないのかもしれないけど
(いや、いるのかなぁ)
同棲時代には
「何故、結婚しないのか?」
「ちゃんと結婚した方がいい」
(ちゃんとの意味が分からないのだか)
等と言われ
結婚したらしたで
関係が近いようで近くない人から
さほど交流の無い近所の人まで
「子供は?」
が始まった。

私はトゲトゲした言葉を浴びながら
育ったおかげで
そうした
あまり気持ちがいい訳ではない質問にも
耐えうる図太さを持ち合わせているけれど
その私ですら
「うるせぇな。」
とイラつく時もあったのだから
(私も小さく傷ついていたのだと思う)
そうでない方々はどんな風に過ごしておられる、おられたのだろうか。

持ちたくなくて持っていない場合も
持ちたいけど持っていない場合もあるし
投げかけられる言葉への耐性は人それぞれながら
地味に続くこの悪気の無い質問に向き合う場面が
ある、あったのではと思う。

子供を持たなかった私に
実母はオットの前で
「こんな欠陥人間」と言った。
特別驚きはしなかったけれど 
その時
温厚なオットが
「欠陥人間じゃありません」
と真っ直ぐ静かに強く言ってくれた。
母親に言われた言葉より
オットが言ってくれた言葉に涙が出たのを
覚えている。

時々
負け惜しみと捉える人もいて驚くけれど
子供がいるとかいないとか
結婚してるとかしていないとか
パートナーがいるとかいないとか
お金があるとかないとか
そんな事とはカンケーない
幸せが確かにあるって
感じながら生きてきた。
どう在ろうが
幸せも不安もあるって
知りながら生きてきた。

私が知らない幸せは絶対的にあるけど
私しか知らない幸せも絶対的にある。

母が言った言葉は今もこの心で疼くし
周囲の子育て話が私を隔離する事もある。
時々
持たなかった世界に想いを馳せる事もあって
私の中に言葉にならない風が吹いたりもする。
今よりもっと若い頃には泣いたりする日もあった。

それでも
私は日々大笑いしたり、歓んだりしている。
美味しいものを食べ、面白いと思うものを観たり読んだりしている。

死ぬまで
この矛盾を抱いていくのかもしれないけれど
それはそれ。
「弱る日があってもいい」って
私くらいは私に言ってあげたい。

だけど
持たなかったものや
誰かや何かの価値観に
持っているものや
私自身を見失わされたくはないな
って思う。
そもそも
不意に流れてくる言葉や価値観は
「おはよう」や「いい天気ですね」くらいの
軽量さで
深刻なものを含んでいない場合が多い。

気にし過ぎていたら
身が持たない。ホント。

私は私の知り得る幸せの中に身を置いている
と言うのが私の真実。


快適さや安心感を感じられる何かを
しっかりと握っていられますようにって

強く

思う。




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