井の中の蛙

或る日の午後のことでした。お客様が帰ったあと、私は人目蛙を見ようと井戸に向ったのです。いざ覗こうとするとき、得体の知れないものがかすめた気がしたのです。立ち眩みでも、目眩でもない、不安な気持ちになりました。
日光が届かない井戸にはもうほとんど水はなく、灰深い石、その輪郭を描くかのような深緑に視界が奪われました。底にはむき出しの砂利なのか濃やかな何か。白のような橙のような砂粒がこちらをみているようでした。
列記に井戸といいますが、ただ人一人分を掘って雨水がたまに溜まっているだけで、むしろ今では掃き溜めと同じなのでした。
数日前私はここに蛙をみました。親指の爪ほどのほんの小さな蛙。私を見るなり井戸にすっとんで、どこからかの隙間から逃げていました。私はそれに気づきませんでした。手に乗って感触を確かめた訳でもないのに、私は蛙に気を取られました。盗まれたのです。
コンマ数秒の出来事に、私の眼は動きにとらわれて、支配されていました。小さいなかに大きい何かを含有するような、追いたくなる感覚は久しぶりでした。私はなにか大きいことを成そうと、小さいことを蔑ろにしていたのかもしれない。視野が広くなったといえるのかもしれないが、それは同時に小さい蛙を忘れていたのです。
井戸を覗いた時、蛙はいませんでした。その時に得体の知れない恐怖を得ました。井戸を覗こうとした私は、作用させられていたのです。
自然の意味深な誘いにまんまとはまり込み、ふと我に返ると、地球の全体重を受けながら、灰色の雲でいっぱいになっている空をみつけて、一目散に走り出しました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?