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30代で酒を飲み続けて学んだこと

多く人にとっての20代が最も自由に行動できる時期ならば、30代は独身である限りは最も自由に金が使える時期だろう。その30代に僕は年間360日以上は酒を飲み、メルセデス・ベンツのGクラスを買っても釣りがくるほどの金を酒に費やした。その見返りとしてメルセデス・ベンツの市場価値以上に世界が広がったと思っていた。そしてそれが思い込みであることに気づいたのは30代も残り半年を切った頃だった。

とにかくそんな30代に僕は多くの酒飲みに出会ったが、酒場に戯れる輩は男も女も曲者ばかりだった。特に深夜の酒場は曲者で溢れていたが、曲者だからこそ夜通し酒場に足を運ぶのだろう。まともな人間は24時を過ぎれば安らげる場所へと帰るし、朝が来れば向かうべき場所へと足を運ぶ。酒場に集う曲者は自らの抱える欲動を昇華しきれずに、深夜まで酒を飲みそれを持て余すのだ。

そんな曲者が集う酒場で出会った中でも加奈子ほど魅惑的な人はいなかった。

加奈子は誰よりも酒が強く、ストレート以外で酒を味わうことにはなく、誰よりも多くのアルコールをその体内に流し込んでいた。その上、加奈子はどんなに酔っていてもどんな酒であっても真剣にそれを味わっていた。さらに加奈子はその酒が高いか安いかという基準に惑われず、製造過程にも歴史にも逸話にも関心を示さなかった。その酒の良し悪しは全て加奈子の味覚を満足させるか否かで決まった。いわば加奈子は味覚で快楽を得ることに妥協を許さない女だった。

当時僕が週6で通っていたバーには必ず加奈子がいたが、彼女は僕より先に帰ることはなかった。つまり僕がそのバーにいる間は、常に加奈子がバーカウンターで酒を味わっていたことになる。僕と加奈子はそのバーカウンターで隣合わせることもあったが、お互い目の前の酒に真剣に向き合っていたから話をしたことはなかった。

そんな加奈子は毎週水曜日の24時を過ぎるとジンをストレートで味わっていた。

その週の水曜日は、ビクトリアンバット/ジンが選ばれた。加奈子はジンを前にすると誰も寄せ付ける隙をみせず、極めて冷徹になった。

「ビクトリアンバットのストレートです」

速やかにショットグラスを差し出すと、バーテンダーは加奈子から距離を置いた。ジンを味わう加奈子にはバーテンダーさえ近づくことはできなかった。水もつまみも話し相手も必要とはせず、加奈子はただ静かに目の前のジンを味わう体勢を整えた。

目を閉じてグラスに唇を充てると、加奈子は左手でグラスを傾けジンを舌に乗せて、口内をジンで濡らしてから喉に流し込んだ。喉元をジンが通過するときの加奈子の表情は恍惚に満ちていた。そのサイクルを一夜に24回繰り返し、朝を迎える前にボトルを空けると加奈子は何事もなかったかのように去っていった。

ある夜、僕がバーの扉を開けると客は加奈子だけだった。バーテンダーは僕を加奈子の二席となりの席に促した。

「どんな酒もわたしを真に満足させることはできない」

誰に向けたか分からない加奈子の言葉が店内に響いた。

「ラムは陽気さが気に障るし、ジンは冷徹過ぎて、テキーラは主張が強すぎる。そしてウォッカは主張が見えにくい。ウイスキーは、そうね、わたしには内省的過ぎるわ」

僕が彼女から二席空けてバーカウンターに座る直前に、加奈子は僕のとなりに席を移った。
「今夜は内省的なあなとウイスキーを空けようかしら」

加奈子は前触れもなく僕に話しかけてきた。加奈子がバーテンダー以外に話しかけるのは、僕が知る限りはじめてだった。

「好きなボトル頼みなよ、私がおごるからさ」
「ショットバーでボトルを頼むという発想は僕にはないな」
「私はバーボンをストレートで味わう女で、あなたはスコッチのブレンデッドウイスキーを水割りで味わう男だから」
「酒の飲み方はまるで逆だけど」
「でも酒を飲まずに味わっているのは同じでしょ、あなたもわたしも」

加奈子は他の客とは違い周りの客に関心を示すことなく、ただ目の前の酒に向き合っていたから彼女が僕の酒の味わい方を知っているのを意外に思った。

いずれにしても加奈子の言葉には選択の余地は含まれていなかったし、酒飲みとしての僕の本能はそれに応じて、マッカランを指定した。

加奈子がマッカランをオーダーすると、バーテンダーはふたりの間にそのボトルを置いた。

僕はマッカランを水割りで味わい、加奈子は頑なにストレートで味わい続けた。

今まで話をしたことがなかった加奈子と僕は、マッカランを前にその味わいについて語り合った。

「マッカランはね、優等生過ぎるのよ。味わいに面白みが足りないわ」
「だったら水割りで味わってみればいい。優等生の隙が僅かに見える」 
「わたしはいかなる酒もストレートしか味わないの。分かってるでしょ」 
「たまに習慣を変えてみると新しい側面が見えるかもしれない」
「水やソーダで割って酒を味わうなんて、着飾った服の女を見て満足しているだけじゃない。お互い裸にならないと本質は見えないわ」

話題が尽きることはなかったが、加奈子も僕も自分の話をしなかっし、お互いのことを聞くこともなかった。そこに語られる言葉は酒に対しての各々の考えだけだった。

夜が空ける頃にマッカランのボトルが残り1杯ずつになると、加奈子はいつの間にか僕との距離を肘が触れ合うぐらいに詰めていた。

「ねぇ、あなたのいちばん好きな快楽は」

唐突にはじめて僕自身について質問をした加奈子のその目は、僕の目の奥を覗き込んでいた。
僕は加奈子から目を反らしながら答えを探した。

「どうしようもなく惚れている女を抱いているときの精神的快楽、かな」
「あなたはセックスを精神的快楽と捉えるのね」  
「君がいちばん好きな快楽は」                    「わたしは男に抱かれて得る快楽よりは、ウイスキーを味わって得られる快楽の方を好むわ」

加奈子は横目で僕を見て言った。その視線の意図を読み取れないまま僕は、加奈子にペースを乱されないよう目の前のマッカランに対峙した。

その水割りはどこまでも透明感に満ちていてウイスキーは水に、水はウイスキーに同化しているようだった。

最後のマッカランを飲み終えると、加奈子がどうして僕に声をかけてきたのかを考えた。飲み手として共通する部分があったからだろうか。

加奈子は最後のマッカランを飲み干すと僕を見ずに言った。

「わたしは本能で酒を味わっているけど、あなたは理性で酒を味わっている」

バックバーを見ていた加奈子の指先は僕の手の甲に僅かに触れた。しばらく僕の触覚を揺さ振ったその指先はやがて緩やかに離れていった。僕の手は加奈子の指先の余韻を感じていた。

「ねぇ」                               僕は無言でこの夜の行く末を想像しながら彼女を見返した。    
「わたし、今やっとあなたの本能を感じたわ。後はあなた次第ね」    

加奈子はもう1度僕の目の奥を覗き込んだ。そこに隠された答えを探るようにその眼差しは鋭く光っていた。

「あなたはこのバーカウンターで唯一わたしの興味を引く人だわ。曲者が集まるバーカウンターで、人の話をよく聞きながらも他人との距離を適切に保っている。決して深入りはしないし、状況に流されることもない。あなたが観察者であり続けることができるのは、それなりに自制心が高いからね。そしてそんなあなたにもちゃんと欲しいものがあることが分かったの。でも今のままのあなたじゃ欲しいものは手に入らないわ」

加奈子はそう言うと僕の答えを待たずにカウンターを後にした。
その席にまだ加奈子の余韻が残っている内に僕は追加でマッカランをストレートでオーダーした。

目の前のグラスを傾けたがマッカランの味を捉えることができなかった僕は、加奈子に言われた言葉を頭の中で繰り返した。

「今のままのあなたじゃ欲しいものは手に入らないわ」

その夜が明けてから加奈子は何事もなかったかのように毎週水曜日にはバーカウンターでジンを味わっていた。時おりひとりでウイスキーのボトルを空けることもあったが、加奈子は僕と話すことも目を合わせることもなかった。

僕は加奈子と言葉を交わした夜から、酒を真剣に味わうことができなくなっていた。加奈子は僕の心に物足りなさを残し、その物足りなさが何か分からないままに僕は酒を飲み続け、酒場に戯れる人間を観察し続けた。

当時の僕は酒場の人間や状況を観察することで、その本質を捉えようとしていた。冷静に状況を見続けることにより、僕はその後の人生で生きる上での貴重な示唆を得たし、ときに奇妙な体験を得ることもできた。一方でそれは安全な場所からしか物事を見ようとしない自己満足に過ぎなかったのだ。

30代で酒を飲み続けていた僕は現実から目を背けるには大人になり過ぎていたし、世の中を達観できる程に成熟されてもいなかった。ただ酒場で時間と金を消費し続けていた僕にとって、加奈子の言葉はある側面で真実を捉えていた。

そんな僕は40代になって何を見るのだろう。今のところ変わったことといえば酒場にいた曲者たちが24時前には静かに帰るようになったことと、僕がたまにウイスキーをストレートで味わうようになったことぐらいだ。

そして今の僕は何が欲しいのかを明確に自覚している。

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