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忘れられない夜

バーで飲んでいるとたまに忘れらない夜が訪れることがある。その地方都市のバーで飲んだ夜も僕にとって忘れられない夜となった。

「マスター覚えてますか。オレ20年ぐらい前にね、マスターと会ってるんですよ。ほら、マスターが新車買ったときによく寄ってくれていたコンビニの店員だったんですよ」

2年振りに訪れたバーで飲んでいると、男が僕の隣に座るなり馴れ馴れしくマスターに話しかけた。

男は近くの店で飲んでいたようで、昔話の流れでマスターのことを思い出し、はじめてそのバーに訪れたようだった。

既に気分良く酔っている男はウイスキー・ソーダをオーダーした。銘柄を指定されなかったから、マスターはバックバーからハーパーのボトルを選んだ。

そのバーはある地方都市にある老舗のバーで、70代のマスターと若い女性バーテンダーが2人で切り盛りしている。

僕は2年振りにその街に訪れて、居酒屋でほろ酔いになった末にそのバーの前を通りがかった。
2年前に味わったマスターのギムレットと、女性バーテンダーとの会話を思い出して、扉を開けると地元の常連たちで賑わっていた。

そこで独りグラスを傾けていると先の男が入ってきたのだ。

ウイスキー・ソーダを待つ間も男はマスターに話し続けていた。
常連たちで積み上げた酒場の雰囲気を、男が崩しかけたところでマスターが言う。
「すみませんが、覚えてないですね。僕はね、最近じゃもう昨日のことも忘れちゃうんです。そりゃ20年も前のことは覚えてないですよ」

冗談交じりだが、やや突き放すようにマスターが言った。

「そんなぁマスター。オレいつかマスターの店行くって約束したじゃないですか。やっとこれたのに覚えてないんですか」

「いや申し訳ない。覚えてないことを覚えてるとは言えないんでね」

「あの頃マスター尖っててカッコ良かったですよ。コンビニの外で騒いでいる不良たちを一括して新車で去っていってさ。オレは全部覚えてるんだけどなぁ」

男は自分がその場の雰囲気を壊しつつあることに気付いていないようだ。ウイスキー・ソーダを飲むペースも早く、2杯目をオーダすると男はターゲットを僕に定めたようだ。

「あれ、こちらは初めてですか」
「いえ、2年振りに2回目です」
「2年振りってどちちから来たんですか」
「東京からです」
「えー、わざわざ東京から」
「このバーのことを思い出して久し振りに」
「あー、バーが好きなんですね」

続いて男は少し離れたマスターに向かって言った。

「ねぇ、マスター、このお客さんに僕から一杯ご馳走させてよ」
マスターは僕を見てから男の前に立った。
「それは出来ません。このお客さんはね、バーが好きで酒を味わってくれているんです」

有無を言わさずにマスターが言うと、さすがに男も自らの言動を省みて静かに飲みはじめた。それから男はその街の話を僕にしれくれた。近所のスナックの常連のこと、駅前が開発される前の飲み屋街があったこと、酒屋の店主と飲み行ったとかそんな話だ。

僕は男の話に耳を傾けながら、酒場の空気を味わいバーボン・ソーダを味わった。男と同じハーパーのソーダだった。女性バーテンダーは時おりこちらに視線を充てながら、他の常連たちを相手にしていた。

しばらくするとマスターが男の前に立った。
「ちょっと思い出してね、確かに新車を買ったときによくコンビニに寄ってました。あの大通りの酒屋の隣ですね。ただね、申し訳ない。お客さんのことは、どうしても思い出せないんですよ」
男は2杯目のウイスキー・ソーダを一気に飲み終えた。

「もういいですよ、マスター。なんかさっきはしつこくて申し訳なかったです。もう一杯ください」
マスターは男の3杯目にグレーンモーレンジを選んだ。2杯目もハーパーだったが、3杯目に少しだけ高い銘柄に変えたのだ。

マスターが作ったグレーンモーレンジ・ソーダを男が味わった。
「うまい、ねぇこれ本当にうまいよ。やっぱりマスターの作る酒はいいなぁ」
男が言うとマスターはそっと笑い、二人は何気ない会話をはじめた。
それは男がその酒場に馴染みはじめた瞬間だった。女性バーテンダーは、変わらず目の前の常連たちと話していた。

僕はそんなやりとりを見ていて、改めてこのバーの懐深さを感じて、心地よく酔いながら、ギムレットをオーダーした。

マスターがライムを4等分に切り、それをシェイカーに絞り込み味わいを整えた。マスターがシェイカーを女性バーテンダーに渡すと、彼女がシェイクして僕の目の前でギムレットを注いだ。

マスターがシェイカーを振らずともその味わいの鋭さは2年前と変わらなかった。

「もうね、腱鞘炎で振れないんですよ」
僕の疑問を先読みするようにマスターが言った。

このバーに来たときと様変わりした男、マスターの引き込み方、常連たちがそれぞれ楽しく語らい酒を味わう雰囲気。バーと酒場の合間のような空間で僕はギムレットとその空気をゆっくりと味わった。

「じゃマスターまた来るから忘れないでね」
「いやー、1週間過ぎると忘れちゃいそうですね」
「そんなこと寂しいこと言われたら毎日通いそうだよ」

男は結局ウイスキー・ソーダを5杯飲み気分良く帰っていった。

他の常連たちも帰りカウンターが僕だけになると、女性バーテンダーが僕の前に立った。

「ギムレットはいかがでしたか」

女性バーテンダーはそう言うと僕の前に水を差し出した。

「とても美味しく味わえました」
「それは良かったです」

マスターは暗がりでグラスを磨き、女性バーテンダーは静かに氷を削っていた。つかの間の沈黙を経てから僕は彼女に言った。

「2年前にも丁度この席に座っていたことを思い出しました」
すると女性バーテンダーは氷を削る手を止めた。
「覚えてます。文章を書かれてますよね。バーの話、興味深く読みました」

今に至るまでそれを口にしなかった彼女の言葉は僕の芯を鋭く捉えた。そして僕は男がこのバーに入ってきたときのマスターとのやりとりを思い出し、なぜか強い酒が飲みたくなった。

僕はマスターに思わずマティーニをオーダーした。
マティーニは容赦なく僕を酔わせたが、心地よさは保たれていた。

僕はその夜のことを忘れることなく、今もグラスを傾けている。

きっとマスターもその夜のことは覚えているだろうし、彼女はこの文章を読んでいるかもしれない。そして僕はあの男のことも忘れることはないだろう。








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