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国葬を望む者は誰か。


そもそもシンゾーアベ本人は

国葬など望んでいるのだろうか。


おそらく生前含めて望む人は

世界中探しても誰一人いない。

ワタクスはそう思う。


残された人がやろうとするだけ。

残された人が悼み、思い、行うこと。


言わば、残された人々はそこで

大事な判断をして決断することを

問われているということ。


いま公費でやることもやらないことも。

その後を受け継いだ各人が先人に対して

先人ならどうするか。

自分ならどうされたいか。


あらゆる角度で自分で考えて

どうすべきかを先例にとらわれず考え

決めることが重要なんだろうと思う。


やることは簡単だろう。

思いを寄せれば。

肩の荷が下りるのだろう。


一言やると言って動かせば

簡単に動かせる立場にいるのを

彼らは本気で自覚していない。


以前も書いたが国葬される政治家は

ほとんど戦前から中心にいた

人々ばかりであって。


当時も人の生き死にが関わっている。

過去は戦争であり、今回は殺人である。


人の生き死にのスイッチが入ると

心情的にはどうしても冥福を祈ってあげたい。

だから国葬を、という気持ちもわかる。


しかしここで大々的にやらずに

死を悼むことも可能なのである。

残された私たちとしては。


関係性があった諸外国の要人たちが

弔意を示したいのは衝撃的な殺人で

非業の死を遂げた当人に対する思い。


その思いに対して大風呂敷を広げて

より大きく包み込もうと意識して

盛大に送ることは残された政治家

自分たちのため、なのではないのか。


大々的なセレモニーにするのは

一般の私たちの葬式だってそうだ。


本人が望んでいなくてもやっぱりと

なぜか本人の意思をないがしろにして

世間体を考えてそれなりにやろうとする。


葬儀屋が儲かるような作戦に

まんまと乗らなくてもよい。


墓守を永年続ける負担も

増すばかりで。

逃げられない宿命のように

思い込んでしまう。


亡くなった本人が良くても

残された人が世間体に負ける。

そういう弱い決断はしたくない。


自分ならね。やらないといったら

世間体もクソもない。


恥ずかしかろうが、笑われようが

あらぬそしりを受けようが。

やらないものはやらない。

そういう気持ちも大事なこと。


本人以外がその意を汲んでいない

少々やりすぎ感が出てしまってる。

今回の国葬の件については

その観点も忘れてはならない。


どう考えても本人自身は

税金を投入してまで国葬を

望むはずがない。


いくら功績を残した人であっても

そのタイメンをつくろうとするのは

本人ではなく周囲の残された人だ。


彼ら自身は盛大に送ることで

役目を果たしたつもりになるのだろう。


しかしそれは実は

誰も望んでいない。


正しい決断だとは限らないことを

堂々と公費で行おうとしている。


すべては残された人の意思による

タイメンのため。


先人の功績を必要以上に飾りつけ

大げさにしていき、規模の縮小が

体面のためにできないのが人間。


私たちが本人を思ってやりたい

その気持ちはいつだって正しいか?

本当の思いやりなのだろうか。


本人の思いより体面のために

負担を後世に丸投げするような

自分の責任を果たせば後は・・・


延々と続けてきたことを

やめる決断をすることも人間には

大事なことのような気がする。


かなり難しいことだろうが

やらない決断をすることを

生きている人がやるのも

意味があることだと思う。


ええ、なんの根拠もない

私見ですけどね笑







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