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仮定の話。人々から、人びとへ。


どうしてこんなに及び腰なんだろう。

いつからこんなにハッキリしない?


よく政治家なんかが

仮定の話にお答えすることは

控えさせていただく。

という態度をとりますよね。


あらゆることに対してそうですね。

新型コロナにしても、隣国に対しても。

困っている。声を挙げてほしい。

助けてほしい、と叫んでいる。


すぐ隣で、台湾や香港、ミャンマー。

覇権を握ろうといじめっ子は、

言えない腑抜けな日本を知ってる。


リーダー気取りも名ばかりとバレてる。

学校のいじめ問題のようになってるよ?


わかっていて、何もしない。できない。

慎重に確実に、失敗しないように。

みんな周囲も、動き出しを他人任せ。


おそらく政治家は、その国を映す。

鑑となっている、なってしまう存在だ。


どこかで国民の多くの潜在意識に

いじめられているのに黙っている

という罪悪感を肯定している感覚を

持たせてしまう効果もあるのではないか。


仮定の話は、しません。

由々しき事態だと感じております。

早急に抗議したいと思います。

誠に遺憾であると申し上げます。


ああ?なんだって?

聞こえていても、聴こえていない態度。

懸念、残念。ハッキリと態度を取らない。


戦後、日本はずっとこうやって

やってきたんですね。

私たちの知らないところで。


やっぱりトラウマなんだろうけどさ。

武器を使わなくたって、態度や言葉で。

人間性や意思表示を

態度と行動で示さないと。


そのうち誰も慕わなくなってしまうよ。


年老いて目的もなくなって

毎日、空(くう)を見つめる

かつての働きバチたちのように。


国民がこの決定打を嫌う政治家を

毎日見ているんです、どうなります?


同じ意識になっていくんです。

意識の高い人はもちろんいますよ。

でも、吸収されてしまう。

取り込まれてしまうように。

音もしないように、消されていく。


何事もそうだと思うんです。

事態が進まないときに

活発にすべきはなのは

逆に、仮定の話ではないかと。


仮定の話を見せて議論すること。

これが「人々」を「人びと」に

変える感じがするんです。


人のあとを省略したり

誤魔化したりしないで

人のあとに、ちゃんと人がいて。

びと、という状態や意思がわかる。


ひとびとの、この状態のときは

「びと」と読むんだよという

その意思表示が他人にわかるように。


ちょっとわかんないかもしれない(笑)

伝わりづらいかな。



こうなった場合に何が起こり

何をすべきであるかなどを

自分たちも想定しておく

その必要があるから。


仮定の話は、人々に準備をもたらす。

意思の疎通が、その輪郭が際立つ。


そうすれば前に進む自信や意欲が

極端な話、希望の光を帯びてくる。


少しだけ元気さをまとって言葉が弾む。

勢いが、見えない程度だが確実に

感覚としてポジティブになるはず。


仮定の話を互いにしあうことは

自主性を起動させるために

日本人には必要なスパイスではないか。


リーダーたる政治家が及び腰。

全部、ぜっっんっっぶ。出てるよ。

その姿勢や態度が無意識のうちに。

国民の潜在意識に刷り込んできた戦後。


武器は持たなくたっていい。

ただ、武器に負けない刃を持てと。


その意思を持たないといざというとき

手や足、指や足首、太ももが動かん。

動かないんですよ、きっと。


ちょっと何言ってるかわかんない

って思う人が多いでしょうけど(笑)


いつか、この感覚に気づいて

行動につながる人が出て

「人びと」が各地で波及していくと

日本は変わるのかなぁと。


漠然と思いました・・・とさ(笑)


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