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上京田舎者のアイデンティティの浮遊 第三話

東京に住んで8年。
都市開発されていない離島に旅行した。
車が運転できなかったため、移動が尋常でなく大変だった。
バスを1本逃すと、1時間半待った。
1時間半あれば映画が1本みられるなぁとか思っていた。
2泊3日の後、東京に戻ってきて電車に乗った。
物凄い安心感があった。
交通手段が整備されている東京。
1時間待たなくても電車がくる東京。
1駅くらい余裕で歩ける東京。
どんな時間帯でもどこにいても必ずタクシーに乗れる東京。
どこにいてもお金さえ払えばちゃんと家に帰ることができる東京という街に、
とてつもなく安心してしまったのだ。

この妙な安堵感は、このまま見逃してはならない感情だと思った。
わたしにとっては、帰る場所、つまり九州が
一番安心できる場所だったのに、
9年もいると、東京に安心してしまうようになったのだ。
自分のなかに大いなる矛盾を抱えてしまった瞬間
アイデンティティをなんとか支えていた言語の柱にひびが入り
コテコテの方言を話す自分にも、何故か違和を覚えるようになった。

東京という街は好きだが、
日本最大都市になり過ぎてしまい
必然的に競争社会と化し
ここにやってきた者はここで生き延びろといわんばかりに
無言で生き方を強要されるような、
この氷のような冷たさがどうしても嫌いだ。
家賃も高いし、街は24時間うるさいし、
朝は毎日人身事故が起きて
人は電車が遅れることに舌打ちをする。
周りの友人はとりあえず起業するし、
わたしは別に競争に参加しているつもりもないのに
SNSで人々に活躍を見せつけらている気持ちになり
周りのことも、自分のことも、すべてが嫌になる。

安心を覚える街ではないのに、
安心してしまったあの日の自分を
未だに受け入れられないのだ。

何者にもなりたくないし、誰にも生き方を規定されたくないけれど、
たまに本当の自分がわからなくなる。
人間は流動的に生きる動物だから、
自分が何者なのかわからなくなることなんていたしかたないし
それも含めて許容して生きてゆくものなのだ。
と、自分を諭す。

アイデンティティが、浮遊している。

東京という底なし沼に片足をつっこんだまま、
田舎仕込みの奇妙な言語を話して、
沼に落ちながらもがき、
今日も東京で生きている。


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