見出し画像

[鬱屈日記]折り返し地点

いつからだろう、走っても走ってもたどり着かないと思ったのは。

40歳を越えてから、人生は折り返しと言うそうだ。どうやら人生をマラソンに例えるようだ。
折り返し地点に到達した僕は、後半を走り抜けるのだ。終わりが見え始めた人生、走って走って走り抜けるのだ。閃光の様に走り抜けてやる。
だけど、徐々に足が重くなってきた。もう、今の重さに耐えられる脚力が無いようだ。いつまで走り続けられるのだろうか。


僕は落ちこぼれの研修医だった。大学の成績も悪かった。だから人一倍頑張らないと、一人前の医者にはなれないと思った。
努力だけはしてきたつもりだ。毎日毎日患者さんを診て、それに対して教科書を読んで、Uptodateを読んで、成長したら文献を読んで、問題解決を積み重ねながらより良い治療をするよう頑張ってきた。抗菌薬も覚えた。輸液の使い方も覚えた。レントゲンのやCT読み方に至っては今でも教科書を読み返している。

一人前になりたい、一つの通過点として専門医を取得した。人にも自分にも認めてほしかったのだろう、たくさん勉強して複数の専門医を取得した。
専門医は相応の実力がなければただの飾りにすぎない。そのため、専門医にふさわしい自分であるために、ずっとずっと勉強を続けた。

でも気が付くと、少し疲れてきた。膨大な医学は衰えてきた自分には重すぎる。でも、努力しなければ追いつけないのだ。僕は努力しなければならないのだ。気が付けば、「たくさん勉強している立派な自分」に縋り付くようになっていた。何と情けないことだろうか。

自分だけでなく誰かに認めてほしかったんだろう。しかし、勉強しても追いつかず、徐々に徐々に自分の能力という化けの皮が剥がれ落ちたとき、「立派でなくなった自分」には何が残っているのだろう。
いっそ全部捨ててしまえばいいのかもしれない。そのときはきっと身軽になるだろう。だけど、捨ててしまったことを後悔しないだろうか。今まで何のために頑張ってきたのだろうか。あれ、頑張って何しようとしてたんだっけ。空虚な自分を満たすものがなく、努力を手放せずに時間だけが過ぎていく。年を取っていく。

人として生まれたんだから、いろんなことを体験したい。ラビオリもクスクスも食べてない。屋台で型抜きをしたこともない。ハワイにも群馬県にも行ったことが無い。この世の全部を体験したいけど、圧倒的に時間が足りない。

しかし、明日からも努力を続けていくのだろう。だって前に進んでいないと生きていられないから。もう少しだけ努力して、新しい分野に取り組んで行きたいから。
雑誌の連載を辞めることにした。一つ楽になったから、また新しいことにチャレンジしていきたい。

いつまで新しい景色が見えるのかもわからない。だけど、閃光の様に走れなくてもいい。「努力した立派な自分」に「輝かしいゴール」が無くても構わない。走れなくなっても、僕は少しでも歩いていたい。
まだ、折り返したくないし、折り返すつもりもない。不安と後悔を背中におじさんは走り続ける。やりたいことがいっぱいあるのだ。アラフォーおじさんは欲張りなのだ。

時間が無いのだ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?