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ラジオリスナーのみんなちょっと聞いてくれよ!

最近「コラム」と「エッセイ」の違いについて書いてある本を読んだ。コラムは「巻き込み型」呼ばれてもないのに首を突っ込む形、エッセイは「巻き込まれ型」だって書いてあって、最近自分が読んでおもしろいと思う文章のほとんどがここでいうところの「エッセイ」であると気がついた。
感情的か感覚的な文章の違いだと書いてあって納得したし楽になった。なぜ楽になったかというと、文章を書いていて楽しい時と楽しくない時の違いが、もっと言うと生活していておもろいと感じる時とそうじゃない時の違いをこれまで言語化できてなかったからだと思う。

もう今は微塵も残ってないのに固定化された過去の「感情」を使って対象をこねくり回して文字数を稼いだり(このnoteで)、日常生活でも他人に対してそうゆう接し方をしてしまったことが多々あって、ここ数年そんな自分に猛烈な嫌悪感を抱いていた。

その本には感情的文章には観察が存在せず、自分の内面にしか関心がないとあって、その時にラジオのことが真っ先に浮かんだ。なんでだろ?

学生時代なんか今にも爆破しそうな感情というか、声なき絶叫の嘔吐まで数秒前!!ってタイミングで深夜ラジオと出会って「ここだ!」ってその時は思った。自分と同じような人達が沢山いたし、その「お前も吐きそうなん?」って部分で手を繋いだことによって生まれた絆が1時から5時の間だけ確かにあった(当たり前ですがラジオリスナーには吐きそうじゃない健康な人も勿論沢山います)。
仮にラジオに対して「適切な距離」というものが存在しているとするならば、当時の僕は完全に測りかねてたと思う。終電を逃した友達が急遽自分の家に来ることになって、0時50分に駅に迎えに行って、自宅に向かってる最中に1時になって、俺は友達を横目にSONYの馬鹿でかいラジオを神輿みたいに担いで耳に当てながら帰って、そのまま喋りもせず1人ロフトに上がっていったことがあるんだけど、それはおかしな人じゃん。でもいいのよそれで。あの燃え盛るような4年間を一つも後悔してないし、今もなおラジオのおかげでいろんな挑戦をさせてもらえたり、なにより色んな人と出会えたりしている。世間一般的には間違えてたかもだけど、確実に正しかった。

で、俺は歳を重ねた。内省的でいることによってなにかを生み出すことに限界がきた。シンプルに少しだけ器用に生きれるようになったのかもしれない。感情の運び方とかね。
28歳くらいの時にハッキリと分かった。でも卑屈でいないと(当時自分の得意ゾーンとして卑屈でいることがおもしろいことを生み出す原動力だったってだけの話。)うまくいかないように生きないと、みんなとの絆がなくなっちゃうって子供みたいなことをマジで考えてた。その類のネタも書けなくなったし、簡単に言ったらハロウィンとか成人式に対して、コラムももう書けないって感じ。もし今おれがそれらに対して斜めに切り込んでたら、それは過去の感情を再利用かつ固定化してみんなに嘘をついてることになっちゃう。

過度に内省的でいることに飽きた。し、なによりも生き辛い。前に読んだ小説の書評で「感性が豊かであることと、頭が悪いことを混同してはいけない」って言葉があって、大して感情も持ち合わせていないのに当たり屋のように対象にぶつかりにいき、わざわざ拒絶することの馬鹿馬鹿しさに気がついた。
人生や感情をコントロールしようとすることの不可能さみたいなものを最近やっと受け入れることができた。巻き込まれたいと思う。そのためには自分以外に興味を持たなきゃいけないと思った。

話逸れるけどおもしろい芸人って、人の話を聞いてる時の能動っぷりがすごい。ジュニアさんのYouTubeとか見て毎回ジュニアさんの話の聞き方がおもしろすぎてそこばかり見ちゃう。ジュニアさんって明らかに途中から自己から他へ行った感じがある。そっちに行かなそうな人だと思ってたからびっくりした。バナナマンとかおぎやはぎは最初からそこにいた。だからカッコいい。もうひと段階更におもしろくなるジュニアさんに感動した。変わろうとしてる人いつまでもおもろい。

自分が学生時代に聞いていた番組のパーソナリティー達が今すごい活躍してる。とても嬉しい。あの人達のおもしろさを俺たちが1番理解してるじゃん。理解してるって思いたいじゃん!

俺が1番ダサいと思う状態は停滞することで、最もおもしろいと思う状態がなんであれ進み続けてるとき。
なにが書きたかったのか分かんなくなったけど、なんか分かってもらえそうだから、書いちゃった。
ちなみにだけど、例え有り余る幸せを手にしたとしてもおもしろいことは無限に考えれるぜ!自ら不幸にならないで。

落合諒です。お笑いと文章を書きます。何卒よろしくお願いします。