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SanQueHadsu 2/3

"Bottling the VINEYARD" 初年度に発行した「サンクスレター(2018年6月/結城酒店)」に寄稿いただいたコラム「"さんきゅうはづ"というぶどう(著/竹田 耕平)」を全3回に分けて紹介します。
※ リターンのワインが届きそれを呑みながらちょっとしたロマンに浸ってもらおうという意図で作成されたものです。原文のまま掲載します。

"さんきゅうはづ"というぶどう(著/竹田 耕平) 2/3


須藤 鷹次(紫金園 初代園主)

須藤 鷹次(以下「鷹次」という)は、十分一山の麓で水車精米業を営んでいた。電気事業の発達を背景に「他に有利な仕事はないか」と考えた鷹次は、明治45年に自宅裏の岩山の開墾に着手しぶどう畑を切り拓いた。

現在五代目まで続く須藤家(紫金園)のぶどう栽培の起源である。

フィロキセラの猛威により一度は全滅の危機にさらされるが、善兵衛先生の指導と地元栽培者との協働により復活を遂げる。
自身の苦しい経験を糧として熱心に研究を重ねた鷹次は、苗木養成を手掛けるようになる。健全な苗木を正確に養成し、これを比較的安価に供給することを自らの使命とした。

善兵衛先生は鷹次が独創した接木機械を見て激賞し、専売特許の取得を勧めたが鷹次は応じなかったという。

鷹次はぶどう産業の発展と品種の普及に尽力し、昭和14年にその64年の生涯を閉じた。善兵衛先生からの弔辞と多大な御香典に対する二代目義一氏からの礼状が上越市立歴史博物館に所蔵されている。

そこには「先生の御徳をお慕い申し上げ、その直接の御指導を唯一の誇りとして此れを実践し、先生の御教示を金科玉条とし斯業の為に犬馬の労と致さんと思い居り候次第」とあり、善兵衛先生への感謝と尊敬の念を彷彿とさせる。

須藤家には、「川上邦弘」と読める落款が押された「紫金園」という額が残されている。「邦弘」というのは善兵衛先生の本名であり、この額の揮毫者は善兵衛先生ではないかと思われる。

須藤家に現存する額(2017年11月撮影)
「川上邦弘」と読める落款が「園」の左脇に押印されている。
落款部分の拡大画像

善兵衛先生は自宅書斎のことを「紫雲堂」と呼んでおり、「紫」という文字には特別な思い入れがあった。また、そもそも十分一山の一帯は金の採掘により栄えた地であり、"金沢"や"七両坂"、それに"十分一"や"鳥上坂"も含めて「金」に由来する地名は多い。

そう考えていくと「善兵衛先生が『紫金園』と命名したのではないか」という極めて楽しい妄想にたどり着く。

あくまでも我田引水の妄想であることは明記しておくが、「違う!」と言ってくださる方が現れるまでは、ワインと一緒にこの歴史ロマンに浸っていたいものである。(次回へ続く)

#BottlingtheVINEYARD #akayu #akayupride #SanQueHadsu

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