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学生時代に「世間」に関して書いたテキストが出てきた

誤って消してしまった昔作ったサイトのデータを探して、古~い外付けHDDの中を漁ってたら、学生時代(2000年くらい)に書いたテキストが出てきました。世の中的には、少しずつブロードバンドが普及し始めたくらいのタイミングで、だんだんとインターネットが世界を変えていくことが、私のような普通の人にも実感できるようになってきた頃です。インターネットが普及する世界においては、日本的な「世間」という社会構造の方が、西洋的な社会構造よりも適してるよねという話。20年後に読み直してみても、あながちズレて無いなと思ったので公開してみます。全体的に読みにくい箇所もありますが、あえてそのままにしておきました。

世間という価値観

西洋ではキリスト教、イスラム教に限らず宗教というものは強大な力を持っている。そしてそれら宗教において、神は唯一絶対的な存在として定義されている。また、その存在の唯一性以上に強調されているのが、「神の正義」つまり神とは絶対的に正しいものであるということである。そもそもイスラムの神である「アッラー」は「偉大な存在」という意味である。つまり、そういった宗教の影響の強い文化では、神の言うことに従うことが正しいということになる。そしてそれは、そういった文化には確実で形もはっきりとした変化しない模範(みならうべきもの)があるということである。加えて、そういった宗教は「信者にとっては」押し付けられるものではなく、自ら進んでその教えを守るものである。

しかし、日本文化の根底にある価値観はそれとは対極的なものである。日本文化における模範、つまりこうあるべきものというのは、神の教えのような絶対的なものではなく、時代とともに姿を変えていく「世間」である。しかも、その世間という価値観は人々が自ら進んで受け入れるものではない。世間の方が人々の間に浸透していくのであり、世間というものが価値観を人々に強制するのである。そしてそれは、共有するという形で無意識のうちになされる。

しかし、IT(Information Technology)の発達、とりわけインターネットの出現により、そのような「西洋・東洋」といった明確な区切りはじょじょに消えつつある。特に経済面ではその傾向は激しい。以前であれば、自分の国で売れるものさえ作っていれば問題はなかった。しかし、E-コマースがこのまま発展してゆけば、マーケットに国境はなくなる。つまり、文化や習慣、さらには消費者の経済力の違いというものを乗り越えたビジネスを展開していくことを余儀なくされる。だが、そういった経済の世界的発展というものも、政治的な発展なくしては成立しない。つまり、経済的にも政治的にも今まで以上に他国を意識する必要があるということである。

しかし、他国を意識するというのは政治面においては何千年も前から常識であった。外交という言葉はなにも最近になって生まれたものではない。では、何が違うかというと、「他国を敵としてではなく意識」する必要があるのである。これまで、他国というのは自分の利益を奪おうとする敵か、それを共同で阻止する味方のどちらかであった。だが、現在はそうではなく、「共存」するという敵味方といった基準を超えた目的意識が必要になってきている。

そのことは、文化というアイデンティティにも見て取れる。そもそも、独自の文化が発展するというのは、地理的にその他の文化と隔てられているからである。地理的というのは距離だけではなく地形や風土、もしくはその地に生殖する動植物も影響する。インドでは神の化身である象はフランスには存在しなかったし、大量の水を必要とする稲作はアルジェリアでは成立しなかった。そういった地理的、歴史的な差異が文化の差異を生み出すという考えは間違っていないと思われる。だが、高度情報化を迎えている現代において、こと情報という面ではそのような地理的差異は意味をなさない。インターネットの世界に距離や風土といった概念は存在しないからである。そのため、コンセプチュアルな意味においての文化というものは、情報という形で国境を越えるようになった。日本のアニメを見るのに日本にいる必要はないし、アメリカの楽曲を手に入れるには近所のレコード屋に行けばいい。そして、インターネットというメディアはそれ以上の変化を及ぼすことは間違いない。というのも、ネットに接続できる環境にある人々は、実質的に全て同じ情報を手に入れることができるからである(言語という障害は未だ残るが、それも翻訳ソフトの爆発的進歩を考えれば近い将来消えると思われる)。つまり、国家という概念が、劇的な変化を迎えようとしているのである。自分の国というアイデンティティの形が大きく変わる、それが情報化社会だと言うこともできる。そしてそれは、国家間の壁が揺らぐということを意味する。

このことは、価値観というものにも多大な影響を与える。そして価値観とは共有されて初めて意味をなすものである。つまり、情報化社会は世界的な価値観、国家という壁を越えた共有できる社会基準というものを生み出すということである。そしてその共有価値観はたとえ時間がかかろうとも必然的に生まれるものである。

だが、その価値観の自然発生を待っていては、今後に対処するということができなくなる。そのため今、国際政治、世界経済の場ではそのような新しい価値観を任意的に作ろうという動きがある。その筆頭がアメリカである。例によってアメリカは自分たちの価値観の絶対性、「American justice」を主張し、世界をアメリカ化することによってそのような価値観の共有を図ろうとしている。その対極と言えるのが日本である。

歴史的に見ても、日本は昔から違う文化を柔軟に受け入れ、それを日本流にアレンジして独自に発展させるということを繰り返してきた。それが「染められる」ということになる。だが、それをネガティブに捉えるのは、自分たちを絶対だと思っている西洋的文化だからである。上に書いたように、そもそも日本には絶対的な文化、「神」がいなかった。そのため、他国のものであろうと、いいものはいいと素直に受け止めることができたのである。

現代がもし文化が交じり合う時、つまり融合期だとするならば、そのような日本的柔軟性が求められる時でもあるのではないだろうか。

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