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『どうせ就職もできないから』

どうやら夫は子どもたちのことをこう思っているらしい。もちろん喧嘩になった。もし私がヒグマだったら、とっくに彼の首はへし折れていただろう。人間に生まれたことを初めて悔やんだ夜だった。

彼はお店を出そうと考えていて、その店を将来子どもに残してあげられたらという気持ちからオマケのように出てきた言葉だった。彼なりの優しさや親の責任ということだろう。

子どもたちと私は「ホームスクール」「ホームエデュケーション」と呼ばれる生き方を選択していて、今はその中で「アンスクーリング」「アンスクーラー」という部類にいる。

普段、子どもたちはゲームや動画を楽しむことで忙しい。不安視する大人は多いが、ゲームや動画から学ぶことは多いと提言する専門家もいて私もそう思う。親の不安は親本人の問題であって、親の思うように「お勉強」や「なにか辛いこと」をしない子どもたちのせいではない。

そして私は「子どもが何をしているか」よりも「どのような状態か」を重視している。困っていることはないか、安心して楽しく過ごしているか、幸せか。それだけで十分だと思う。そうして絶対的な安心感の中でひたすら好きなことに打ち込み過ごす中で自己肯定感が育ち、何かやりたいことができたときに他人から見ると難しく面倒で大変なことすら楽しんで乗り越えていくのだと思っている。本人は「乗り越えている」つもりもなく、その困難さえ楽しんで取り組むのだろうと。

学校が勝手に決めた学年や教科書に沿ったお勉強をしないと自分(親)が不安だから子どもにやれと押しつけたり、子どもが好きなように楽しく過ごしていると心がザワつくから何かを取り上げるのは、子どもの将来に何か良い結果を残すと思わない。子どもを思考停止のロボット人間にしたいならそれでいいと思う。

親が、子どもが自分と同じようにしないこと育たないことに不安を感じるのは、その親が無知だからだ。

自分が育ったのと同じように、自分が大人から暴力や脅しや飴と鞭の下に何かを我慢させられたり無理やりやらされたことを正当化して、今の自分のあり方価値観や自分を育てた大人たちが正しかったのだ、だから自分の子もそう育てるべきなのだと疑いたくないのだろう。

子どものそのままを受け入れ認めることは、これまでの自分の人生において自分の親、教師、従わされ生きるしかなかった自分自身を否定することになるから。本来の自分以外の人間になるように、親もその親から同じことをされ従わされてきた、ずっと繰り返されてきた。

子どもの頃に怯えて育った全ての人に伝えたい。「あなたが大人に叩かれたのは、あなたが悪かったのではない、その大人が無知だったからだ」と。暴力や「こうしないとこうなるよ」という脅しによる支配は教育ではない。私はその暴力の連鎖を子どもたちに引き継がないことを決め断ち切った。

子どもたちには、そのまま自分の気持ちや感性を大切に生きていってほしいと心から願う。変わっても変わらなくてもいい、その胸の内に存在するもの全てあなたのままでいいのだ、と。

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夫の子どもたちを卑下する発言は初めてのことではない。それは夫が無知であるがゆえの仕方のないことで、私に怒りの感情が芽生えるのは私が無知だからだ。

仏教の三毒の一つである怒りだが、私はこの怒りをなかったことにはしない。私はとっても怒っている。この怒りをエンジンにして次のステージに向かおう。いつか「あのとき私を怒らせてくれてありがとう」と笑顔で言える日がくるといいなと思う。


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