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恋をしてなくても、君はもうかわいい

Sponsored by :あやべクリニック

女の子は恋をすると可愛くなる

この言葉を初めて聞いたのは、中学に入ってすぐの頃だったような気がする。

入学した途端、周りの子が桜と同化するかのように色めき出し、特に好きな子の話をしているクラスの女の子は可愛く思えた。
顔ももちろん可愛く思えたのだが、振る舞い、出立ち。
まるで恋をする女の子だけが放てるオーラを持ち合わせてるみたいだった。遅れを取らないようにと私ももできる限り身なりに気を使い始めたのを鮮明に覚えている。

色付きリップ と くし

この二点セットを忘れた日はひどく落胆した。

今年も春が来る。

新生活、新学期。出会いの春。
季語が何かと新鮮味を帯びるこの季節は、なんだか新しい一歩を踏み出させることを後押ししてくれている感じがする。
いつも自信のない私にとってはこの季節、嫌いじゃない。

世の中にも、進学、就職のタイミングにあたる人々は今までの自分とは新しい自分で、来る入学式や入社式に向けて準備をしている人もいるかもしれない。

出会いの春なのだから、と素敵な人との出会いに堂々とした自分で春を迎えたいに決まってる。

そして中にはプチ整形や、脱毛で自分により磨きをかけることを考えている人もいるのではないだろうか。
しかし、これら美容医療はピンキリではあるものの、デパコスなんかよりも値の張るものなので、自販機で飲み物を買うように簡単には財布の紐も緩まない。
インテリア用品を買うように、自分が生活する上でそれが必要かどうかの判断がつきにくい。

だからこそ、迷う。
ずっと迷う。
ずとまよ、である。
脱毛でさえ、周りもやっているかもしれないけれど踏み出すのに勇気が要る。

術後後悔するようなことがあったら……
もしかしたら今じゃなくてもいいのかも……

という不安も抱えている人は少なくないはずだ。

みな心を決めて、クリニックに来ているのか
いざ治療を決心しても、「あなたは治療の必要がないよ」と伝えられるケースもあるのか

治療したくても踏み出せない時、本当にする必要があるのか判断できない時にどう不安を解消すればいいのか、また患者さんの治療のモチベーションにお医者さんがどう向き合っているのか、気になることを今回もあやべ院長に聞いてみた。

治療をしなくても私はもう十分かわいいのか問題

小田: 治療が必要ない方も来院されることがあると思うのですが、、

院長: いるね、そういう時はカウンセリングで、説得することもあるね。

小田: でも、説得しても限界ってあると思うんです。その人の求める美を否定するわけにはいかないから。その時はどうするんですか

院長: それは治療に応じるね


まだ、SNS など流行っていなかった頃は、日本で整形に対しての否定的なコメントが多く見られていた。

せっかく親から生まれてきた身体が気に入らないのか、てきな。

身体に傷をつけるのか、てきな。

しかし今や時代は令和。
SNS で簡単に自分の顔や身体を晒し、知らない人同志でもコメントができるようになった。多くの人は「美」にセンシティブになっている。
日本よりも韓国の方が整形技術が最先端であるからと、施術を受けるために渡韓する人まで多く見かける。
美しさに磨きをかけるということは、「今の自分の容姿に満足していない」という意思の現れだと思う。
けれど、自己をあまりにも否定的に見すぎて、摂食障害や過食症など、精神的な病を二次的に抱える結果になった若者も増えているらしい。

YouTubeに動画を投稿している女の子の下瞼が涙袋を作る整形をしたのが明らかに分かるほど強調されていた。
整形前の方が可愛かった、なめくじがついているみたい
というコメントがそこにはついていたが、そのコメントに対して、
「私は今の私が可愛いと思ってる」
と彼女は返答していた。

そうだ、自分が思う可愛いなんてひとそれぞれだ

そう思いながらも、自分を美しく見せることに過剰になりすぎていずれ食べたいものも我慢して食べられなくなってしまうのではないか、容姿のコンプレックスばかりに目がいって苦しくなってしまわないか、などと勝手に心配をしてしまう。承認欲求を否定している訳ではない。
ただ、生きるために最低限必要なことを犠牲にして得た「美しさ」は、それは本当の「美しさ」なのだろうかと疑問に思うのだ。

治療をする(しない)ことで自分が納得するか

院長: 結局、納得するかどうかなんだよね。「目標と自己の観察」だよね。目標とのギャップを治療によって埋められるけど、それをかけられるお金は、キリがない。だからどこで自分を納得させられるか。

院長によると、どれだけ美しくても精神的に病む人がいるのは、外見の美と内面の美のバランスに乖離が大きく生まれているからなのだそうだ。
決して、美を犠牲にして他の美を得ているという話ではなく。

こんな人間だと思ってもらうために、外見もあんな風に美しい自分でいたい!

とか、

私はこんなに美しいのだから、中身も素敵な人だと思ってもらえるように中身も磨きたい!

と誰もが思ったことのあるように、外見の美と内面の美とのバランスは誰にでも乖離があり,それを埋めようとすることで人は美を追求するが、そのバランスを比較した時の差があまりにも大きいと、生活に影響を及ぼしてしまう。心療内科やメンタルクリニックと整形外科・皮膚科などは、心と体両方の美のバランスを整えるために存在しているのだ。

ということは、整形や脱毛をしようか悩んでいる人は、なりたい理想像に近づくために「治療をする」ということが自分にとって納得できるものなのかという判断基準を持てば、より的確な判断ができるのではないだろうか。
治療によって、心と体の美のバランスが保てるようになるかという基準での判断だ。

院長: 若い時はボジョレー・ヌーヴォーみたいで若いことに意味があるから美しい。
でもワインは、長年熟成することで深みが出てくる。だから、格付けワインのような人間を目指さないとつまらない。
見かけや社会的ステータスが大きくなった時に、本を読んだり、良い人間関係を構築したりしないと、自分にアンバランスが生まれて、根っこが小さいのに見かけだけが大きい木のようになって、最終的に倒れちゃうんだよね。

【注】ボジョレー・ヌーヴォー・・・その年に収穫したブドウを使用し造られる新酒。ヌーヴォーはフランス語で「新しい」。

そう考えると、
「女の子は恋をすると可愛くなる」は本質をついているのかもしれない。恋をして、胸を弾ませ、相手と並ぶにふさわしい理想の自分ができあがると、同時に現状を理解して、相手との不釣り合いに落胆することで危機感を持ちながらも人は可愛くなる努力ができるのかも。
けれどそんな努力をしようと思える心の状態を持ちあわせていることもまた、私はかわいいと思う。
整形や脱毛で美のバランスを整えるように、恋をすることで内面との元々持っているかわいいのバランスを埋めているのだから。

院長の話を聞きながら、私は、日々メイクを追求する周りの友達にも伝わるといいなと思ったりした。 

恋をしてなくても君はもう可愛いと。

記事制作ご協力:あやべクリニック

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