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科学的でなくても認めること

1つ前に投稿した長文を乱暴に要約すれば、「味の素への批判は非科学的だ!」という話になる。

私が許せないのは、科学ではないのにあたかも科学であるかのように主張すること。でも、もとから科学でない信念めいたものは尊重する。

私自身は、牛や豚を食べることに抵抗はないけれど、犬や猫はあまり食べたいと思わない。同様に、世の中には牛や豚を食べない人々がいることは尊重する。科学的に安全が示されて、それが美味しいものだったとしても、無理に食べさせることはしない。

ろくに火を通さずに鶏肉を食べようとする人がいたら、「危険だから辞めといたほうがいいよ」とは言う。それは科学の守備範囲。理解した上で、命を賭してでも味わいたいのなら、それ以上は止めない。それは科学の守備範囲ではない。

という訳で、「宗教上の理由で味の素は食べない」という理由であれば認める。ただ、嫌うなら一人で嫌っておけよとも思う。まだ、食材からだしをとる素晴らしさを伝えてくれた方が好感が持てる。

宗教と科学の対比

「宗教」というと仰々しいイメージだけど、私はもっとカジュアルに捉えている。誰が観ても客観的に判断ができる「科学」との対比として、理由なく信じているものは大雑把に「宗教」だと私は捉えている。

例えば、「スラッシュメタルはダウンピッキングで弾くべきだ!」という要求は、私にとっては宗教みたいなものである。

擁護する理由としては「ダウンピッキング↓↓↓↓↓↓↓↓の方が音の粒が揃う」が挙げられる。反論として「Dream Theaterくらい上手ければ、オルタネイトピッキング↓↑↓↑↓↑↓↑で弾いても区別は付かないよ」が言える。理由がなくなった!

だがしかし、音がどうとかではなくアティチュードの問題として、やっぱりスラッシュメタルはダウンピッキングで弾くのが望ましいと私は考える。理屈の問題じゃないねん。

…書いてて、わかりにくい例だった。すみません。

成し遂げたいことがある場合に、科学は「どう実現するか」を教えてくれるのに役立つ。でも、私が何を成し遂げて「どう生きるか」という問題に対しては、科学は何も答えてくれない。

人生の決断だけではなく、何気ない行為に対しても、「なぜ?」を投げかけ続けると、理由が言えない領域に辿り着く。自称無宗教な人でも、何かしらの拠り所があるから判断ができる。

死生観だったり過去の反省であったり、理由は説明しにくいんだけど信念めいたものは人それぞれで違っている。いちいち名前は付いていないけれど、それは宗教みたいなものだと思う。

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