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ミロかマイロかそれが問題だ

ある週明け、職場の先輩からオンラインホワイトボードMiroの読み方について改めて聞かれた。オンラインの世になって、対面でフセンを使ってやり取りする代わりに役立つツールである。

これまで散々「ミロ」と呼んできたので、今更の話ではある。どうやら、連休に家族で集まった時のエピソードから「ミロ」と呼び続ける自信がなくなったらしい。

先輩は家族で集まって次の旅行について計画を立てていたらしい。発散すべく模造紙とフセンでも出すかと言ったところ、お嬢が「それならマイロを使おう」と提案してきたそうな。

いくつかの特徴を聞いたところ、オンラインホワイトボードの類だとは分かった。先輩が「ウチでは違うツールを使っているから聞いたことないなぁ」という反応をすると、実際に画面を見せてもらうことになった。

それ、完全にミロやがな!

お嬢の身の周りの人々はMiroを「マイロ」と呼ぶのだそうな。あまりにも当たり前に「マイロ」と言われるので、先輩は「ミロと呼ぶ自分の方が間違っていたのでは?」と自信がなくなったという話。

調べると似たような内容の記事があり、公式見解「My-ro」ではなく「Mee-ro」で決着はついているようだ。むしろ「ミーロ」かもしれない。

牛乳と割って子供が飲んでいる方のMILOについても同様の議論があるのも味わいある。

話はMiroに戻る。自分が当たり前に信じていることが他の人から「間違っているよ」と言われ続けると、果たして自分は信じ続けることができるだろうか?ということを思う。

ある日突然「何言ってるの?太陽が地球の周りを回っているんだよ?」と一斉に否定されると、おそらく地動説を信じ続ける自信がなくなる。いや、実験や観察から裏が取れることはまだマシか。

そもそも、どちらかが正しいと決めねばならないのか?という疑問もある。「春菊」を「菊菜」と呼ぶように、ローカライズの一種と見なせるのではないか。

そりゃぁ、公式な企業の発信やニュース原稿は、表現を一意に決めるのは大事ではある。でも、「マイロ」がお嬢の周辺では弊害なく通じるなら、尊重すべき文化圏なんじゃないかという気もする。

新しい文化圏に身を置いた際に「マイロでやりましょうか?」とお誘いを受ければ「そうですね、マイロにしましょう」と返せる人でありたい。

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