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AIが見せる景色への不満は誰に言うべきか

参加者が2万人を超えるようなSNS上の日本酒コミニュティにて、ある参加者が人気の「新政」に関する投稿をした。

そのコメント欄に別の参加者が「いろんな日本酒と出会いたいのに、新政の投稿ばかりでうんざりだ」という旨のコメントを残した。

どのような感想を持つかは自由だけど、意見を伝える相手と内容は適切なのだろうか?という疑問を私は持った。観点としては2つある。

内容とは関係ないけどレアな新政を飲んだ

①集団への不満を個人に負わせるのは荷が重い

1つ目の観点としては、集団への不満を個人にぶつけていること。言われた方は「私に言われても」と思うし、実際に1回のコメントで伝わるのが1/100人とすれば、同じことを100回コメントしなければ伝わらない。

主体のいる組織や会社であれば、代表者や窓口に物申せばよいかもしれないけれど、好きで集まっている集団を統制することは期待しにくい。しかも後者の理由により、コメント自体が逆効果となりうる。本投稿の主題も後者。

②AIのフィルターが似た投稿ばかり溢れさせる

2つ目の観点として、「○○の投稿ばかり」がAIによって作り出された状況かもしれないこと。

コメントを残した参加者が望む「いろんな日本酒と出会いたい」に対して、実はそのような投稿がなされているのに、量の中で埋もれて目に届かないことがある。

参加者が2万人もいるコミニュティで、すべての投稿が参加者のタイムラインに流れると、身近な友人の投稿が埋もれてしまう。そうならないよう、観る価値のある投稿かどうかをAIのフィルターが選別している。

まだ見ぬ銘柄の投稿があったとして、反応が少ないとAIから価値の少ない投稿と見なされて選別に残らない。みんなが知っている銘柄は、一定数のイイネが集まるのでフィーチャーされやすい。

二項対立で言えば、投稿者側ではなく視聴者側の反応が原因となって、似たような投稿が溢れる結果となる。この意味でも、投稿者側に意見するのはお門違いという話。

AIが見せる景色に触れる時間が増えた

ここまで書いてみて、以前クソ真面目に数えたこともあったなと思い出した。これを書いたのは2年前だけど、最近さらにAIが見せる景色に触れる時間が増えたことを意識する。

縦長リールにせよThreadsにせよ、次に見せるコンテンツをAIが選ぶサービスがますます増えた。「このネタばかりで飽きたな」と感じる頻度も体感的に増えた。

「食傷気味だよ」とコメントすること自体が、そのコンテンツを評価するシグナルとなって、自分の視界に登場させる頻度を増やすのは、なかなか業が深い。

テレビの視聴率と何が違う?

振り返れば、最近のSNSサービスに限った話ではなかった。視聴率に迎合したテレビ番組に「つまらない」という感想を持つような話は昔からあった。

制作側と視聴者の相互作用によって流行が生まれては消費される点では共通している。以下、異なる方に注目して3点を挙げる。

1点目:制作者が民主化したこと

テレビ時代は製作者という主体が別世界いたのに対して、SNS時代は視聴者だった民衆も制作者となって入り交じる。

個の制作者には意見が伝えやすくなった反面、似た考えを持つ集団に物申したくなっても、主体は不在のため伝えるのが難しくなった(上で指摘した内容)。

2点目:制作側と視聴者が相互作用するサイクルが爆速で回ること

ちょうど、ロボット取引の株価が凄い勢いで変動するような話。AIがフィルターする投稿も、流行に敏感が行き過ぎて流行りネタが一瞬でタイムラインを埋め尽くしがちになる。

3点目:視聴者側にとってメディアの選択肢が増えた…?

テレビ時代は他の選択肢が乏しく、テレビというメディアを絶つのはハードル高かった。視聴者が主体的に選択できたのは「どの番組を視聴するか」レベルであり、番組単位で観ない行動を取ってきた。

テレビ時代はチャンネルの手綱を視聴者が持っていたのが、SNS時代の傾向としてはコンテンツ選びの手綱をAIに委ねることが増えた。

それでも視聴者は「どのサービスを利用するか」の手綱を持っている。AIの見せる景色が気に入らなければ、似たような他のサービスに乗り換えればよい。見限られないようサービス提供者はAIの振る舞いをチューニングに苦心しているのだろう。

ただし「自由にサービスを乗り換えられるか?」と聞かれると、それほど流動的とも言えない。視聴者が同時に製作者にもなることも多く、「せっかく育てたアカウントを捨てるなんて勿体ない」コストは高い。

そんなに嫌なら観なければよい?

テレビの時代から基本的に私は「そんなに嫌なら観なければよい」派だった。

「基本的に」には例外もある。自分への誹謗や根拠のない情報拡散により不利益を被る人であれば、声を挙げるのは当然に思う。「そのネタは飽きた」レベルの話なら、観ない意思表示でもフィードバックとして機能するし、スマートかもしれない。

別の例外として、改善を求めた愛ある意見ならばよい。ただ、視聴者の意見を聞きすぎることや視聴率ばかりを追うことが、制作者の萎縮につながり、つまらなさに加担することがないかは常に自問自答すべきと思う。

どちらでもないケースであれば、嫌なら観なければよいのにと思う。これは「私はそうする」という話であり、誰に強制するつもりもない。私と異なる考えを持つ人がいるのも理解する。

嫌なことを嫌と言ってはいけないのか?

嫌なものを嫌と言いたい派の立場に立つと、大義名分として「表現の自由」がある。「嫌なものを嫌と言って何が悪い?」という内容の投稿も目にする。

表現の自由は認めた上で、気に入って楽しんでいる人にわざわざ聞こえるように言うのは野暮だと私は思う。嫌う時は独りで嫌えばいいし、好きなことに時間を割く方がよっぽどよい。

AIの時代に起きる不幸としては、好きで楽しんでいる人に「あなたはこのテーマが好きでしょ」と、アンチ投稿をお届けしてしまうことだろう。今、Threads内でワチャワチャしている中にも、割とこういうケースがある。そのうち技術が解決するかもしれないのはウォッチしたい。

掲示板の時代から、ネットリテラシーの例え話として「家の前に張り紙できる内容か?」という項目があった。AIが情報を選んでお届けする時代だと、さらに「自分と反対の考えを持った人の目の前に話せるか?」くらいで捉えて臨むのが平和かもしれない。

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