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時は流れて名が体を表さなくなる問題

何にでも文句を付けるおじさんとSNSで繋がっている。タイムラインには「○○という名前なのに△△なのはおかしい」というツッコミ投稿が流れてくる。「名は体を現わさない」旨のツッコミである。

実際はどんな話題だったかも忘れたくらい些細な話なんだけど、つい私も引っかかって「筆を入れない筆箱や、下駄を入れない下駄箱なんかにも、いちいち指摘するのか?」という旨のコメントを残した。

正直「どうでも良いことを気にするおじさんだなぁ」とは思っていた。このどうでも良い話題について掘り下げている時点で、私も同じ穴のムジナとしてブーメラン食らうかもしれない。


先天的パターンと後天的パターン

名は体を表さない問題について、私が思い付くパターン分けは以下。

  • メタファーのため最初から名が体を表していなかった先天的パターン

  • 時間の流れによって名が体を表さなくなった後天的パターン

前者、先天的パターンの例として「メロンパンなのにメロン入ってない!」「電気ブランなのに電位差がない!」などが挙げられる。もし、そんなツッコミをすれば、無知か無粋で片付けられるだろう。

あくまでイメージの話であるし、イメージの世界において名は体を表しているとも言える。

ツッコミに意味がありそうなのは、後者の後天的パターンだろう。時間経過により「名は体を現わさない」不一致が解消されるだろうから、新しいものが世を変える過渡期に起こりやすそう。

例えば、1990年代の母親は「ファミコンばっかりやらないで勉強しなさい!」と叱り、子供は「ファミコンじゃなくてプレステだよ!」と反論した。そのような不一致は、2024年現在には聞かなくなった。

ソシュール先生の教えを思い出す

名と体の対応について考えると、言語学者ソシュールさんの言う「シニフィアン(表象)」と「シニフィエ(意味)」を思い出す。

ソシュール先生は、意味と表象の組み合わせに必然性はない「対応恣意性」を主張している。たまたま「下駄箱」という名前だったけれど、別の世界線では「ゲトゥー・ア・ヴァーコ」だった可能性もある。

私は、ソシュール先生の考えを疑っている。日本語の漢字は表象文字であるため、ある程度は表象が意味を導いてしまうのではないか。

最初にできた単語に「対応恣意性」はあったとしても、それらの単語を組み合わせで作った新しい単語についてはどうだろう。日本語に限らず、表象と意味が食い違うと違和感があるんじゃないか。「名は体を表す」という言葉がある時点で、対応必然性はある。

やっぱり下駄箱という表象には、「読んで字のごとく下駄を入れる箱であるべきじゃないか!」という考えを抱かせる力がある。

単語は差異によってでしか決められない

「単語は差異によってでしか決められない」という言語学の考え方はそのとおりだと思う。アンミカ先生は白色を200色に分けられ、私より解像度の高いものの見方をしている。

1980年代の一般的な日本の家庭で、家庭用ゲーム機はファミコンしか存在しなかった。このため、わざわざ「家庭用ゲーム機」のような抽象的な単語を用意する必要も無いし、「ファミコン」と同一の集合を指すため支障は無かった。

1990年には「スーパーファミコン」、1994年には「プレイステーション」が登場する。しかし、世のお母さんにとってカタカナの新しい商品名を次々に覚えるのは難しい。

「ファミコン」「スーパーファミコン」「プレステ」を包含した単語「家庭用ゲーム機」で呼べば、テレビに映して夢中でピコピコ遊ぶ電化製品を一括りにできる。

だけど、お母さんと子供の間で、ピンとくる言葉ではなかった。言語学が「社会に認知される」ことを要求するように、少なくとも2人のやり取りで通じない表現は使えない。しかたなく「ファミコンをやめて…」と発言した。そんな事情を想像する。

そもそも、ソシュールによる言語学の対象は、ある瞬間の言語を切り取った「共時態」である。変化する言語に対して担ぎ出すのは不適切かもしれない。そうだとしても、考える枠組みからはたくさんの示唆が得られる。

名と体の不一致を解消するアプローチ

この手の「名は体を表さない」ツッコミは過渡期に起こるように感じる。過渡期の不一致はどのように解消されるのだろうか。

不一致の解消方法として、「シニフィアン(表象)」の修正か、「シニフィエ(意味)」の修正が考えられる。

このご時世に「下駄箱」と呼び続けることは違和感あるので、「靴箱」を新たに定義するとともに、総称して「履物箱」と呼ぼう!とするのが前者。スリッポンでもクロックスでも問題なく入れられる。

「下駄箱」が市民権を得すぎていて、今更呼び名を変えるのは難しいので、「下駄箱」という呼び名で靴を入れる箱を意味しても良いことにしよう!が後者。

社会的に認知された方が生き残る

後世の学習者から「Why Japanese people!?」とツッコまれる可能性を考えれば、前者のように交通整理する方がツッコむ隙がなく理想ではある。

ただ、言語は社会的に認知されなければ通じない。新しい単語を浸透させるにも体力が必要となる。

どちらに転ぶかは、我々の社会がどのように新しい単語を認知するかに委ねられている。生き残った表現が、次の世代の辞書を書き換える。

冒頭にあった、何にでもツッコむおじさんが想定しているよりも、言葉はナマモノで変わり続けるよねと思う。

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