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受動的若者のすべて

悲しきかな、私はお盆に休みを取る社会の歯車である。そのため夏休みはとうに終わり、平日は仕事、土日は虚無、という反復横跳びを続けていたが、8月が終わるというだけでこの妙な焦燥感は何だろう。春が終わっても秋が終わっても冬が終わっても、季節の変わり目だからお肌がシンドイわね…あと衣替えをしようにも去年着ていた服が壊滅的に全部ダサイわね…としか思わないのに、夏だけは異常に。

ところで、だらだらと夜更かしをしてしまう理由の1つに「その日に満足していないから」というのがあるという。楽しい時間を昼間に過ごせなかった分、夜中になんとか取り戻そうとしてしまうのだ。

一理あるが、1日に過剰な期待をしすぎな場合もあると思う。ここはディズニーチャンネルではないのだ、毎日刺激的な大騒ぎができるわけではない。では平日仕事戦士である私の楽しみはというと、出勤した瞬間から昼ごはんのメニューを考えることや、取引先からのメールのちょっとした誤字を見つけては揚げ足を取ること、印刷の際にA4の書類をA3にしてしまい、文字がデカデカの資料を作り上司に見せびらかすことなど、枚挙に暇がない。

偉そうに言ってはいるが、私もいつまでもだらだらと起きている人間である。おかげさまで次の日に頭がすっきりするのは定時過ぎという有様。仕事が終わらないのは明らか。

夏終わるの嫌々現象もこれと似たような理由じゃなかろうか。つまり夏に満足しきっていないからということだが、これは我ながら本当にしょうもない。そもそも夏に満足するとはなんだ。四半世紀も生きているくせに夏に何を過剰な期待をしているのか。「夏休み」が終わることを焦っているというなら、自由な時間を失うということでごもっともだが、「夏」が終わることに私は異常に焦っているのだ。

そう、ただでさえそんな状態だというのに、今年はさらに「受動的若者のすべて」も食らってしまった。これはフジファブリックの「若者のすべて」を意図せず聞いてしまうことを指している。

あの歌は大好きだけれども、よし、私の今年の夏はもう終わりです!大丈夫です!さあどうぞ!と覚悟して能動的に聞くべきものだ。今年は覚悟がまだ出来ていないのにテレビから聞こえてきてしまい、おい夏が終わるぞ…お前の夏はもう終わるんだぞ…お前は終わりだぞ…と頼んでもないのに志村が肩に手を置いて語りかけてくる羽目になった。

ただ「受動的若者のすべて」は必要悪な面もある。私が自らこの歌を聞こうと覚悟できるのは大体9月下旬がいいところであり、もうLOFTに南瓜やら骸骨やらが並び出している季節なのだ。かなり世間様に置いていかれている。無理やり聞かされることによって、今年はきちんと夏が終わる頃に夏が終わることを覚悟できた。足掻いても仕方ない、焦ろうが喜ぼうが季節なんて勝手に変わっていくものだと、志村が肩を揺さぶって教えてくれたのだ。

だがやはり志村には勇気を持ってこちらから歩み寄りたいところである。私は来年はそうしたいと思っているが、皆さんには是非、近日中に自らの意思で「若者のすべて」を聞いていただき、夏の葬式を各々済ませて欲しい。


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