嘘をつかないための嘘
あれは小学校3年生の頃だったろうか。ある朝、兄と一緒に登校していると、唐突に、「お前、好きな女とかいるの?」と聞かれた。
言うまでもない。初恋が保育園児の頃だった僕はその後も毎年違う女の子を好きになっていたのだが、その時はツインテールが似合うKさんのことが好きだった。
しかし、いつの世も小学生男子には、恋愛は恥ずかしいものだ、という価値観がある。素直に認めることはできない。
しかし、「いない」と言ってしまえば、この胸の中にあるKさんへの思慕を否定してしまうことになる…。
0.5秒ほど逡巡したのち僕は、「いるよ」と答え、ある弁明を付け加えた。
「俺は家を継ぐから」
この高度なロジックがおわかりいただけるだろうか。
家を継ぐには子供が必要である。子供を持つためには結婚しなくてはならない。結婚するためには女を好きにならねばならない。
それは義務である!俺が女を好きなのは、家を思う男子の誇り高き義務なのである!
兄は「ふーん」と言った。このロジックが通じたのかどうかはわからないが、彼は、「俺は家継ぎたいとか思わねえわ」と言葉を続けた。
さほど意味のないやり取りかもしれない。
だが、当時、既に僕ら兄弟にはぼんやりと差がついていた。兄は典型的な長男気質で、世渡り下手で勉強も今ひとつ。僕は次男気質に富んで、周囲の空気を読むのも上手ければ、勉強もできるタイプ。我が家のヒエラルキーの頂点にいたのが神童気取りの僕だった。
期せずして発してしまったあの下剋上の家督相続宣言が、もしかしたら兄の人生に影響を与えてしまったかもしれない。
もちろん僕には家を継ぐ気など毛頭なかった。嘘をつかないために、別の嘘をついた。
結局、兄も僕も今のところ家を継ぐこともなく、実家に両親を残し、めいめいに暮らしている。おそらく二人とも故郷に帰ることはないだろう。
これは一つのサンプルで、僕はその後もいくつも嘘をついてきた。単純な嘘はなかったと思う。この時のように、嘘をつかないための別の嘘を、咄嗟についた。
その人の人生は、その人のものだ。僕が誰かの人生に影響を与えたなどと考えるのは僭越なことだと思っている。
だが、万に一つくらいは、あったかもしれない。
少なくとも、こういう嘘が僕の人生をどんな風にしたかは、僕が一番よく知っている。
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