見出し画像

SYMPHONIA Day1 剣持刀也・伏見ガクに見るVtuberの歌の二つの形態と第三の可能性

この記事はにじさんじ箱推しのオタクがSYMPHONIA最高だった!ということを、小難しく語るものです。感情を論理でこねくり回すことでしかコンテンツの良さを語れない悲しい同族に向けて書いているところがあります。以下長い、良かった……という感情の発露。

恋?

突然だがVtuberの歌は「文脈」(コンテクスト)というキーワードに依拠して、二つの形態に分類される。1つは「単なるカバー」、そしてもう一つは「Vtuberが曲を乗っ取るもの」だ。

前者は言わずもがな、ただVtuberが曲をカバーしただけのことだ。これは先行する歌い手文化のそれと同じだ。歌の上手さや、原曲とは異なる声質で楽曲を展開し、消費者はそれを曲の別バージョンとして楽しむ。

一方、後者はVtuberという強力な文脈が曲の文脈を上書きし、本来曲が持っていたはずの情景を乗っ取ってしまうものだ。Vtuberにおける曲のほとんどは後者の形態に分類されると考えられる。前者が曲の別バージョンとするなら、後者は曲全体のVtuber単位でのオルタナティブなあり方という事ができる。

この乗っ取り行為をVtuberは彼ら自身の文脈によって成し遂げる。*1
Vtuberの文脈は先天的なものであれ、後天的なものであれ非常に強力だ。「人間目線の曲を非人間の彼・彼女が歌うことの良さ」「これまでの活動をなぞっているかのような歌詞を歌うことの良さ」「長命種・不死が存在の有限性を歌うことの良さ」などVtuberの文脈が曲本来の意味を上書きする現象を確認するコメントの例には暇がない。

この現象には好悪に加えて倫理的な葛藤も存在する。なぜなら曲はVtuberの存在に先行しており、Vtuberのために曲が存在しているわけではないことは明確であるからだ。

Vtuberの歌には以上のような二つの分類があり、それは同時に彼らの歌という現象の限界を示している。なぜなら歌の究極的な発生とは何の文脈も前提としない偶発的な出会いだからだ。目の前で流れてくる音のハーモニーと歌詞を完全に理解することなく、なぜか「良い」と感じてしまうことだからだ。

先行する曲やキャラクター設定、そして配信という文脈を持たなくては成立しない消費のされ方をしているVtuberの歌はそういう意味で、限界があると言うことができる。

できると思っていた。SYMPHONIA Day 1を見るまでは。5曲目、伏見ガクで「贅沢な匙」(アーティスト:栗山夕璃 / Van de Shop)。最初はガクくんらしく食事を題材にした曲で非常に本人にあっているな、と思った。そして同時に自分が院生の頃にコロナ禍もあって生活リズムが終わっていたお陰で、たまたまリアタイで見たおはガクに心を救われたことを思い出した。

ここまではいわばVtuberの歌の後者の形態だった。歌のテーマに付随して伏見ガクというVtuberの文脈を想起し、その文脈の乗っ取りを感動とともに感じていたからだ。しかし、事態はここからが違ってきた。

「ああ、ガクくん好きだ。結婚したい。伏見ガク……、伏見ガクって"何"……?」

今ステージで歌い、パフォーマンスする伏見ガクという人間≒キャラクターがいったいどのようなモノだったのかが分からなくなった。そこで認識できたのは声と踊りとサイリウムだけだった。黄色と音楽と声が調和している空間をただただ享受していた。そこに伏見ガクという文脈も、「贅沢な匙」という曲の文脈も存在していなかった。

これは結局主観に終始するオタクの感想だ。しかし、あの場では確かにVtuberと歌という組み合わせの宿命と私が考えていた、文脈の食い合い、被せ合いが無くなり、それに付随して伏見ガクという温かみのある人格さえも文脈とともに消え去っていた。

それはVtuberの歌の第三の形態だった。曲とVtuberの調和であり、すべての文脈が消えていた。だからこそ伏見ガクという文脈も消失し、そこに残ったのは、「いま、ここ」に在るパフォーマンスだけだった。

曲とVtuberの両者のシンクロ率とでも言うものが最高潮にまで高まった、という単純な要因のほかに、演じる者としての側面を持つVtuberが一時的に文脈から解放されパフォーマンスをする、というライブの構造こそが両者の完全な調和を成しえたのではないか。

演じるという意味でActすることと、生きる姿を見せること、ライブ配信をするという意味でLiveするという、ライバーとしての本質が完全に重なったからこその奇跡のパフォーマンスだったように思えてならない。そこで文脈は付きまとうものではなく、克服されたものとして霧散していた。

この現象はここだけでは終わらなった。7曲目、剣持刀也で「セカイ再信仰特区」(P:ろくろ)。

この曲も一見すると教祖や信仰というモチーフをもとに、剣持刀也が曲の文脈の上書きを試みる選曲に思える。しかし、ひとたびパフォーマンスが始まればそこには「これまでの剣持刀也」はいない。ただこの曲を表現する演者とそのパフォーマンスがあるだけだった。

以上、伏見ガクと剣持刀也がそれぞれパフォーマンスした二曲によって、Vtuberの歌の限界のその先を見た、という話でした。

Vtuberの歌は文脈に付きまとわれるしかないのだから、いっそキャラソンとしてのオリジナル曲でしかこの限界を打破する方法はないのではないか、と考えていた私にとって今回のライブは、まさしく限界突破を見せてくれるものであり、Vtuberの新たな可能性を見せてくれる素晴らしいライブだった。これが演じられた後に文脈をつけ放題の動画ではなく、一時すれば消えてしまう生ものとしてのライブであり、様々な意味でLiveするものとしてのライバーだったこと、それが今回見えた新たな可能性の一因であると考えられる。

*1 このVtuberの文脈は、先天的なものと後天的なものに区分される。先天的なものとはVtuberのキャラクター設定のことであり、後天的なものとは配信活動で培われた、いわばVtuber個人の歴史のことだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?