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大竹伸朗「ビル景」 人の内側の地形


突然思い立ち水戸に行ってきました

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目的は水戸芸術館で開催されている(いた)

「大竹伸朗 ビル景 1978-2019」

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「大竹伸朗」「ビル景」名前は聞いたことはあるがよくわからない名詞1位

このフォントのTシャツきてる人とかよくいますね

東京に巡回の予定はなさそうなこと、かなりの大規模展で一挙に大竹伸朗を知れそうだと思ったこと、今日が最終日であることの3点がありまして、朝から行ってまいりました

東京駅からバスで2時間で水戸駅に到着

水戸芸術館です

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いいね

写真撮影は一部を除きOK、所要時間1時間半程度

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よかったです

ずっと「ビル」を描き続けてきたからこそ、大竹の変化とともに絵にもその変化が如実に現れる


以下、作品リストから引用↓

「ビルとの出会い」
 絵のモチーフとして「ビルディング」を意識し始めたのは、1979年9月から80年代前半にかけて度々訪れた「香港」でのことだった。
 蒸し暑い真夏のある日、何気なく見ていた中景の「ビル」が自分自身と強烈に同期したように感じた。
 屋上正面に社名の立体文字が設置された素っ気ない「白いビル」だった。
 内側から強くせき立てられ、自分を包み込む香港の空気や湿気、熱波、匂いやノイズすべてを絵の中に閉じ込めたいと思った。
 鉛筆で一気に描いたその「ビル風景」の絵を見たとき、内と外が合体したような感覚を覚えた。

いいですね〜。私の中で大竹伸朗をスルーして生きていく選択肢もあったのに、行きたい、知りたい、と思ったのはこの「同期」とか「内と外が合体したような感覚」という言葉を読んだからというのが大きい。そういう感覚が好みである


「スケッチのこと」
 風景や人物を実際に「目で見て」描いたスケッチには、それがどんなに短時間の出来事であっても2度と戻らない一期一会の「時間」が刻印される。
 他人にとってまったく無意味にしか映らないただ1点のインク染みえあっても、あらためて見ると、そのときの「ニュアンス」や「気配」「手触り感」がジワジワ蘇ってくる。

いいですね〜。絵に限らず、文字でも同じことが言える。高校生の頃のノートを見返すと、そのときの言葉では言い表せぬ温度感が蘇ってくる。


「絵を描く」
 心の中にポッと灯がともるような暖かい感触、自分にとって「絵のきっかけ」はそんな風に不意に「起きる」。それは理詰めからは決して起きてくれない。
 「起きた」結果、絵を描き始めても最初の「暖かい感触」はすぐに消え、いつも先の見えない状態に放り込まれるのだが、その時間の中に次の絵に繋がる手がかりと出会う。その終わりのない繰り返し。
 「未完成作品」を含め1枚の絵のきっかけが「起きる」こと、それが自分にとって一番重要だ。

「いつも先の見えない状態に放り込まれる」ってところが説得力マシマシにしていていいなと思います


「内側の地形」
 人の内側にはそれぞれ異なる「地形」があり、個々唯一無二の風景を成している、そう思うことがある。
 「ビルのある風景」を描いていると、自分の内側の「地形」をぶらぶらと測量しながら「地図」を作っているような気持ちになることがある。

感覚を言葉にするのがうまい人だなあ


という感じで、絵もたくさんあったが、大竹伸朗が何考えてるんだろうなあと思いながら見たりしてた

普通に本も読んでみたいと思った

大竹伸朗おわり


どうせ全休だし、と思って早起きして行ったんだけど、展覧会の評価とは一切関係なく、会期があれば今日じゃない日に行きたかった

私が一番信頼を置く占い師の石井ゆかりの「今日の占い」で、遠出は控えた方がいい、って書いてあった

今日行けたのはいいことなんだけど、行く道中も帰ってからもダルさが抜けない

もうダメだ…


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