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僕を育ててくれたパトロンたち

僕が13歳の秋、父が死んだ。

その年は年明けに阪神淡路大震災があり、春先には松本サリン事件があった。多くの犠牲者を出した天災とテロのあった年、それらには関わりなく安穏と暮らしていた僕ら家族から父がいなくなった。

急性骨髄性白血病...そう診断されたのは、その年のゴールデンウィークのことだった。

即入院して抗がん剤治療が始まり、日常は一変した。

高望みし過ぎた中学受験に失敗して地元の公立中学校に進学した僕は、部活動もほとんど顔を出さずよく病院へお見舞いへ行っていた。

そんな闘病生活は半年ほどで終わりを迎え、あっさりと父はこの世を去った。


稼ぎ頭がいない暮らし

父が亡くなった翌月、母方の長男である叔父さんも胃ガンで亡くなった。

それがきっかけで土地持ちの豪商だった母方の実家は遺産相続でもめてお家騒動へ発展し、民事裁判で兄弟が骨肉の争いをすることになってしまった。


母はといえば、父を失った悲しみと、慕っていた兄を失った悲しみに暮れる暇もなく、自分の実の母である祖母を匿い介護しつつ3人の子供達の面倒を見ていた。

おまけに、父が亡くなったということは、働き手が家にいなくなるということだ。

少しばかりの保険金でしばらくの暮らしはなんとかなったようだが、進学を控えたこどもを3人も抱えてのシングルマザーとしての暮らしは、きっと僕の想像を絶するような覚悟を求められたに違いない...

それでも、僕が不登校になった時にも、姉が浪人をした時にも、妹が高校を辞めた時にも、母は怒ることもなく受け入れてくれた。


あれから色々あって、今は僕も結婚して娘が2人いる。

子育てはもちろん、稼ぎ続けて家族を養うのがどれだけ大変かは身に染みてわかった。

だからこそ、なぜ父を失った母が女手ひとつでどうにか暮らせたのかが不思議で仕方なかった。


遺族年金というパトロン

母が女手一つでも僕ら3人のこどもを育てられた理由...それは、遺族年金という制度のおかげだった。

遺族年金は、国民年金または厚生年金保険の被保険者または被保険者であった方が、亡くなったときに、その方によって生計を維持されていた遺族が受けることができる年金です。( 日本年金機構WEBサイト より)

要するに、僕らの暮らしはこの国の国民みんながちょっとずつ税金を払って助けてくれていた。

そして、父は厚生年金もかなり支払っていたそうで、現役時代こそ「どれだけ稼いでも半分くらいは税金なんだよなぁ...」とボヤいていたそうだが、もしも遺族厚生年金がなかったら僕の人生は進学もできずもっとハードモードだった可能性が高い。

いろいろと悪い話もある年金制度だけれど、突然の不幸に見舞われた小さな家族に対して、この救いのある制度はパトロンのようにそっと暮らしを支えてくれたのだ。


この国のみんなが親がわり

大人になっていろいろな仕組みを少しずつ知るようになって、実は知らないうちにたくさんの人たちの無意識の善意で助けられていたことを知った。

なんてことはない。父を失った僕にとって、みんなが親がわりになってちょっとずつ支えてくれていたんだ。


今、この国には少子高齢化を筆頭に、上がり続ける税金と下がり続ける社会福祉などの山積みの問題がある。

正直に言えば尻尾を巻いて良いタイミングで国外へ移住しちゃいたいとか思うときもあるのだけれど、それをしたくない理由の一つが受けた恩をまだ返せていないからだ。

今はまだまだ育児で手一杯で経済的な余裕はぜんぜんないけれど、いずれもっと稼いで経済をちゃんと回して、助けてもらった恩をまた見知らぬ誰かにそっと届けたいな、と思っている。


税金も年金も、その使い道が間違っているときばかりがニュースになる。

でも、本当に税金の使い道のほとんどが間違っていたら、この国はとっくに破綻しているハズだろう。

僕の例は、年金というシステムが本来の動きをしただけの話かもしれない。

そんな当たり前に起きた助け合いが、きちんとこれからも当たり前のままであって欲しいと、幼い娘たちを眺めながら思う。

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