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波がきた(日記62)

日々、淡々と暮らせていたのだけれど、先週くらいから、おや?ということが増えた。


なんとなく、就労移行支援に、行きたくない。
なんとなく、出かける支度に、億劫さがつきまとう。


それでも、えっちらおっちら、家を出ると、わたしの両足は、一歩前へ、一歩前へとわたしを運んでくれて、なんとか休まず、通所することができている。


行ってしまえば、むねのなかのもやもやは、時間とともに薄れていって、なんとかプログラムをやり終えて、帰ってくることができる。


帰ってくるころには、朝よりは幾分か気持ちがやわらかくなっており、家のことなどもできて、夜、おだやかな気持ちで、床につく。


お布団に入ると、とてもほっとして、ああ、今日も1日が終わったな、と、ひとりごちる。


そんな繰り返しの1週間だったのだけれども、いよいよとうとう、うつの波がやってきたようだ。


それでも昨日は、久しぶりに同居人氏たちとドライブをして、おいしい焼肉を食べたり、お気に入りのホームセンターで植物たちを眺めたり、ほんとうにたのしく、時間を過ごせた。


これは、進歩だと思う。
まちがいなく、進歩だと思う。


進歩したな、うれしいな、という気持ちと、今まさに、胸がつかえている感じ、こころの疲労というべきか、いろんなことが億劫に感じて、総じて自分に自信がなくなっている、元気がない状態というのもまた、同じように、こころのなかにある。


それでも前だったらば、もっともっと、動けなかったはずだ。
動けないので、動かないまま、嵐が去るのを待とうとした。


でも今日は、すこしだけ、行動を変えてみた。


動けない時間をじっと過ごしたあと、すこしだけ気力がある瞬間を掴まえて、ソファから立ち上がってみた。


そのあと、15分だけ、足踏み運動をした。


ちょっと休憩して、もう少しできそうだったから、もう15分だけ、足踏み運動をした。


そうしたら、ほんのすこし気持ちが苦しさからそれて、こころにすこしの風が吹き込むような心地がしたから、そういえばお母さんの声をしばらく聞いていないなあと思って、お母さんに電話してみた。


むかしだったら、考えられないこと。
弱っているときにお母さんに近づくなんて、とてもできなかった。


でも今日は、なんだかお母さんの声が聞きたくて、電話をかけた。


どうしたのー?という、お母さんの、あっけらかんとした声を聞いたときに、ああ、電話をかけてよかったな、と思った。


わたしはほとんど話さずに、お母さんの話をただ聞いていただけだけれど、電話を終えると、またすこし、こころが苦しさからそれて、風が吹き込んでいるのがわかった。


波はこうしてやってくる。
決して来なくなることはない。
だから、迎え入れて、波がちいさくなるのを、とおくを眺めるように、距離感をもって、じっと待つ。
それから、波が大きくならないように、日々を過ごすことも、おなじくらい大切。


たぶん明日も、つらいかもしれない。
胸がつまるかもしれない。
こころがつかれているかもしれない。
けれども、それをなかったことにしないで、かと言ってそれだけを見つめるんじゃなくて、よぼよぼでも、とぼとぼでも、そんな気持ちを抱えたまま、明日も家を出ようと思う。


それで、がんばれたら、がんばったよ、って、同居人氏たちに、報告しよう。
声に出して言おうと思う。
わたし、がんばったよ、って、胸を張って言おうと思う。

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投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい