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常連客の恋

「La jiborara」へランチに来たご婦人方がコース最後のデザートを食べ終え長い会話を始める頃、今日も謎の常連客は女性を連れて気怠そうに店に現れた。慣れたように壁側の席につき、ギャルソンに小さな声で「いつものお願い」と呟くように伝える。その間、連れの女性はずっとしおらしく、時々うっとりと彼を見つめる。

「げっ、また来たんか、あいつ」

やっと昼休みに入れると思って厨房から出て来たシェフは常連客の姿を見て憎まれ口を叩く。

「今日はどんなのと一緒なんや」

常連客は必ず女性を連れてこの店に来るが、相手は一度として同じだったことがない。今日は気の強そうな仕事がデキる風の女だが、モデル風、ヨガのインストラクター風、地味な漫画家風、品のいい奥様風、青い瞳の金髪女性、60代くらいのマダムを連れて来たことだってある。共通点は女であることのみで、年齢もタイプもバラバラ。ただ唯一、女たちは皆、食事の間も待つ間もずっと恍惚とした表情なのだ。

「あれは絶対、あれだ」

常連客が来店した日のまかないは決まって「彼が何者か」と言う話題で盛り上がる。オーナーはまるで禁止用語でも言うかのように、ひそひそ声でそう言った。

「あれってなんやねん」
「だからあれだ、あのー、女性からお金を貰って、その…」
「男娼?」

アツがすかさずそう言うとオーナーの耳が赤く染まる。

「やー、アツ、ストレートすぎる」
「でも、あの人ブラックカードなんですよ…だから違うような…」
「謎すぎるわ。芸能関係かと思ったこともあんねんけど、その割にはガツガツしてへんのよなぁ」

・・・

常連客は店を出るとすぐ女と別れ、ひとり住宅街の方へ向かった。門からはみ出るように生える木蓮の木をくぐった先に、彼の自宅があった。庭先の上手に剪定されたバラの枝を見るに、春になればここは優美で芳しい空間になるのだろう。

庭に面したバルコニーから大きなガラス戸を開け、彼は家の中へ入った。陽の光が降り注ぐ大きな部屋には所狭しとキャンバスやスケッチブックが置かれ、油絵の具の匂いが充満している。イーゼルに載せたキャンバスには美しい色彩の裸婦が描かれている。

謎の常連客の正体は、画家であった。

パクジミンなる画家は、海外での方が名が知られているらしい。美大生の頃にアメリカの美術愛好家に高く評価され、まだ20代でありながら海外で何度も個展を開く新進気鋭の「売れる」画家だ。

特に、彼の裸婦画は独特な色彩と世界観で、見れば誰もが引き込まれる不思議な魅力を持っている。彼は現代のクリムトと呼ばれ、世界中のファンが彼の作品を待っている。さらには、彼に自身を描いて欲しいとこのアトリエを訪れる女性も多い。彼がビストロへ連れていく女性は、すなわち、彼のヌード画のモデルたちであった。

その日は冬なのに風もなく暖かかった。無色透明だった陽の光が少しずつ檸檬色へ変わっていくのを見ていたら、自分を解放したい気分になった。それで、彼はアトリエで絵を仕上げるのをやめて、キッチンでホットワインを作り、それを水筒に入れ散歩へ出た。

天気がいいからか井の頭公園には人が多かった。彼は奥まった木陰のベンチに腰掛け、用意してきたホットワインを飲んだ。ただぼーっと目の前の池を眺めていた時である。橋の上に見覚えのある女がいた。彼は思わず髪をかきあげ前につんのめった。ほぼ同時に、その女もジミンの視線に気づく。一瞬、時が止まったように感じた。女は微笑みを浮かべ彼の方へ近づいた。

「ジミン君、お久しぶり」

ルミ子はジミンの美大の講師だった。一回り以上歳上の彼女は当時注目を浴びるアーティストで、その前衛的でタブーに挑戦する作風はまだ純真無垢だったジミンを大いに刺激し影響した。ジミンの才能を早くに見出したのも彼女で、彼が世界に見出されるきっかけとなった作品はルミ子の裸婦像である。
ジミンの初体験も、ルミ子だった。

「何飲んでるの?」

5年以上会っていなかったというのに、ルミ子はそんな質問をした。

「ホットワイン」
「自分で作ったの?」
「うん、飲む?」

ルミ子はジミンから渡された水筒にゆっくり口をつけ、白い華奢な喉頸を波打たせた。

ルミ子はばっさりと切ったショートカットにダイヤのピアスをつけ、柔らかくて暖かそうなロングコートを身に纏っている。女なら誰でも憧れるブランドバッグを持ち、誰の目から見ても豊かな生活を送っているのがわかる。

彼女は昔、破天荒で美しい芸術家だった。「自分は他の人とは違う」と、美大生とはそう信じているような学生の集まりでジミンも例外ではなかったが、初めてルミ子に会った時、自分の世界の狭さや無知を恥じるほど彼女はエキセントリックな人物だった。だから余計に、普通の人々に羨まれるような今の彼女の姿が彼には野暮に感じられる。

「何してたの?」
「ママ友とランチ」
「ははっ。そんなことしてんだ」
「大変なのよ、色々ね」
「ふーん」
「ジミン君は?散歩?」
「ちょっと気分転換」
「近くなの?」
「うん、線路超えてすぐのところ」
「そう…」

ベンチのすぐ後ろを子供が奇声を上げながら駆け抜けた。

「お子さんは?一緒じゃないの?」
「今日は夫の実家に預けてきた」
「じゃあ、今、ひとり?」
「そう。時々はね、自由にさせてもらわないと」
「何時まで?」
「え?」
「いつまでに帰ればいいの」

・・・

ルミ子を連れて家に着いた頃には、夕日は白壁を蜜柑色に染めていた。暮らし慣れた家なのに、そばにルミ子がいるだけで静寂が心をざわつかせる。

「沢山描いてるのね。うん、これも素敵」
「それは今日描いたばっかりの」
「あの純真なジミン君がヌード画で成功を収めるとは、世の中わからないわね」
「それはこっちのセリフだけど」
「何が?」
「あんな自由奔放でめちゃくちゃな人がこんな普通の奥さんになっちゃってさ」

ルミ子はふっと笑った。が、少しだけ寂しそうな顔をしたのがジミンは気になった。

「なんか、飲む?」
「ホットワイン、また飲みたいな」
「いいよ」

ジミンは慣れた手つきで果物やワインをキッチンに並べ、鍋を取り出した。

「スパイスもちゃんとあるの?」
「勿論」
「さすが」
「ルミ子さんの影響だからね」

ふたりは肩をくっつけて林檎を剥き、オレンジと檸檬を輪切りにする。果物を入れた鍋にジミンがドボドボとワインを一気に注ぐとルミ子は「色気がない」と笑った。

「ここにスパイスも入れてと…そうだ、黒胡椒も入れてみよっか」
「合うの?」
「大人の味になるのよ」

ジミンはミルを両手で捻り、このくらい?とルミ子の方を見て、鍋に火をつけた。

「沸騰させないように、静かに優しく、ね」
「今もよく作ってるの?」
「ううん、全然。子供もいるし、夫はシンプルな味が好きな人だから…」

ルミ子はキッチン台に手を置いて、コトコトと小さく音を立てる鍋を見ながら蜂蜜を入れるタイミングを伺っている。ジミンの手が、静かに彼女の手に近づき、手の甲を優しく触った。そして、反応のない彼女の指を一本一本ゆっくりと撫でた。

ついに二人の視線がぶつかれば、その後は一瞬だった。ジミンは優しく触れていた手を強引に引っ張り、ルミ子の唇を奪った。

若かったあの頃に比べて成熟した自分を見せつけたい。平和な生活を送る彼女に火をつけたい。そんな気持ちで、ジミンはルミ子を力強く抱きしめ唇を貪った。

「んっ…」

彼女から漏れる息と柔らかく絡む舌はジミンが心の奥底にずっと隠してきた彼女への狂おしいほどの欲望を燃え立たせた。背中を探る手は器用にワンピースのホックを外しファスナーをスルスルと下げる。

鍋の中のワインがグラグラと揺れ始めても、二人の唇は離れなかった。

・・・

日は短く、外はもう暗い。微かな夕陽の残り火だけがベッドの上の二人に光をもたらす。ジミンはルミ子の肌を指でなぞっていた。指が臍のあたりに到達すると、臍から真下を直線になぞった。

「女の勲章、その醜い線は」
「醜くなんてないよ。美しいよ」

ジミンの指はルミ子の腕を経由し、左手の薬指に到達した。彼は彼女の指輪に触れ、それを外そうと試みた。

「そう簡単には取れないのよ」

力任せに引っ張ってみても指輪はほんの少ししか動かない。ジミンが諦めてベッドに仰向けになると、ルミ子はシーツを肩から羽織りベッドから立ち上がった。そのまま暗い部屋の中を歩き、壁に飾られた絵を眺め、あるデッサンの前で立ち止まった。

「これ、私よね」
「うん」
「こんなもの飾って…」
「思い出が多いから、その絵」

しばしの沈黙の後、ルミ子は振り返った。

「もう帰るわ。私、長くいすぎたみたい」

・・・

鏡の前で髪を整え、コートを羽織り、ルミ子は玄関に向かった。

「ねぇ」

ジミンはルミ子の手を引いた。

「どうして結婚なんてしたの」
「…そんなこと、知りたい?」
「うん。もうずっと、何年も考えてるんだ」
「…才能が枯渇した、から。あなたを見ていたら自分に自信がなくなった。それに…あなたが求婚でもしてきそうに思えたから」
「俺から逃げたの?」
「…芸術家は結婚なんてしちゃダメなのよ…才能がある人は特にね。…じゃあね、ジミン君」

ドアを開けると冷たい風が室内に入り、部屋に染み透った甘美で罪深い空気を一瞬で消した。

「ねぇ、あれ、俺あれが食べたい」
「…」
「ルミ子さんのジャム。イチジクの。色んな店のを食べたけど、あの味には出会えないんだ」
「イチジク…今は季節じゃない」
「知ってる」
「ふふ」
「まず春に来て。庭、綺麗なんだ。ルミ子さんの好きな白い薔薇も咲くし…俺、待ってるから」

ルミ子はジミンをしばしの間見つめた後、寂しげな微笑みを残し静かに去った。

空っぽの家で、ジミンは抜け殻のようだった。しかし、身体の奥深いところに新たな火種が生まれるのを感じた。とぼとぼとキッチンへ向かい、鍋の中のワインを味見する。沸騰させてしまったからか、スパイスを入れたままずっと放置したからか、ワインは苦い味がした。彼は鍋ごとアトリエへ持って行った。

ジミンはキャンバスにワインを撒き散らし、そして一心不乱に、明け方まで絵を描き続けた。彼はまだ、この優しい地獄から逃れることができないらしい。

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