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夕映えの恋 2

バレエ公演が終わると敦子の夫は知人とワインの美味しい店に向かい、敦子は会場前で夫らと別れた。公演中から少し頭痛があったのと、夫たちの横文字の多い高尚な会話に耐えられるほどには元気がなかったからである。

夜の街を一人で歩くのは思えば久しぶりだった。街には人混みがあって若々しい空気が溢れていた。敦子はなんとなく学生時代を思い出して、イヤホンでバレエ音楽とは程遠い当時のヒット曲を聴いた。自分の持ち物も境遇も何もかもがあの頃とは違うが、一人で歩くというただそれだけで過去を思い出し気持ちが生き活きとした。ふと、彼女は大学時代によく通っていた喫茶店が近くにあることを思い出して、そこで珈琲を一杯飲んでから家に帰ろうと決めた。

人通りの多い道から外れた路地にその喫茶店はある。路地を曲がった時、一瞬、彼女はその店が当然そこにあると信じた自分を恐れた。最後にそこに行ってからもう軽く十年以上経っているのだ。なくなっているのではないか、そう不安になりながら進んでいくと、ほんのりと橙色オレンジの灯りが窓から漏れる古びた喫茶店はまだそこにあった。彫刻が施された飴色の重い扉を開けるとカランカランと鈴が鳴り、敦子は一瞬で過去にタイムスリップした気分になった。香ばしい珈琲の匂いも、照明の具合も、かかっている音楽さえも、十数年前と何も変わらないようだった。

昔と同じ茜色のスエードのソファに座りグローブを外してメニューを開いた途端、若い金髪の店員がやって来て「お決まりですか」とぶっきらぼうに聞いた。

「珈琲を」
「ブレンドですか」
「はい。あ、あとナポリタンもいいですか」
「…じゃあ珈琲は食後ですか?」
「あぁ、そうですね」
「はーい」

店員は腕を伸ばして敦子の前に置かれたメニューをパタンと閉じテーブルに立てかけ、奥の部屋へさっさと歩いていった。敦子がこの店に抱くノスタルジーなど微塵も理解できなさそうな、全ての細胞に若さが漲っているような青年だ。それでも、店員として失格と見做されそうな彼の態度にそれほど苛立たなかったのは、彼の声がどことなくこの店の雰囲気とマッチしているように感じられたからだ。森の中を歩く時、湿った土と落ち葉を踏み締める音が静かに響くように彼の声は敦子の耳の中で優しく響いて当分の間余韻で残った。

久しぶりに食べるナポリタンは若い頃の記憶よりも普通の味に思えたが十分に過去を懐かしむことはできた。あの頃は喫茶店に入ることもそこで食事をすることもかなりの贅沢であったはずなのに、今はさほど空腹でもないのに懐かしさだけで注文できてしまうのだから、時の流れとは人を十分に変えるものである。それに、食後に珈琲を一口飲んで、敦子はなぜこの喫茶店を昔ひとときの贅沢の場所にしていたかを一瞬で思い出した。ここの珈琲は目が覚めるような美味しさなのである。それは大人になった今でも感動できるレベルだった。それで今度はお気に入りの本でも持って長居してみようなんて、自由を得た気分でその珈琲を飲み干した。

会計の間、敦子は店員の顔をまじまじと見た。表情や雰囲気は幼いが彫りが深く、まるで深煎りの珈琲みたいな顔だなぁなんてぼんやり思っていると、店員は慣れない手つきでレジを打ちながらチラチラと敦子を見て、突然変なことを言った。

「女優さん、ですか?」
「え?」
「お客さん、なんか見たことあるなってさっきから思ってて。女優さん…」
「うふふ。違います」
「じゃあ、テレビに出るようなお仕事…」
「いいえ、普通の人です」
「あ…ははっ。すみません」

恥ずかしそうに首を傾げながら俯き、イーッっと苦笑いした店員は茶目っ気に溢れ可愛らしく、女優に間違われた嬉しさもあって、敦子はこの金髪の店員を一気に気に入った。

「ご馳走様でした。珈琲、とても美味しかった」
「あのー、ちなみにミックスジュースもおすすめです」
「へぇ。じゃあ、今度試してみます」
「はいっ、お待ちしてます」

店員の笑顔は無防備で純粋だった。その笑顔と最後の会話で店員の残像は深煎り珈琲ではなくミックスジュースになった。そしてその余韻はまさに敦子がこの夜に求めていたものだった。

・・・

駅前に行くといつもと様子が違った。人、人、人でごった返している。遠くに見えるJRの案内板には「XX駅〜XX駅間運行休止」と赤字で表示が出ており、地下鉄駅の入り口には巨大な人ごみができている。タクシー乗り場にも行列が出来ていて、敦子は途方に暮れて少し離れた通りに向かい、流れ行く車の中に「空車」の文字を探した。なかなか見つからずにため息をついて、たった二駅ならば歩いてみようかと考え始めた時、後ろから誰かが声をかけた。

「どっちですか?」

声の主はさきほどの店員で、彼は自転車に跨っていた。

「あ、さっきの」
「電車、乗れなかったんでしょ」
「ええ」
「どっち方面ですか?」
「XX駅なんだけど」
「じゃあ僕と同じ方向だ」
「はぁ」
「後ろ、乗っていいですよ」
「…いや、でも、二人乗りって…」
「大丈夫、だいじょーぶ」
「…」
「どうぞっ」

店員はまるで子供のように無邪気に誘い、敦子は少し年季の入った自転車の荷台に恐る恐る腰掛けた。さっき会ったばかりの店員と自転車に二人乗りするというシュールさに考えを整理しきれないまま後ろ手で荷台の縁をギュッと握ると店員は笑った。

「お客さん、それじゃ落っこちちゃうよ。ほら。僕のここにちゃんと、つかまって」
「あの…なんか、ごめんなさいね。私重いから大丈夫かな」

敦子が腰に遠慮がちに手を回すと、店員は「よーし」と元気に言ってペダルに体重を乗せた。自転車は頼りなく少しだけ進み、ゆらゆらと左右に揺れた後やっと前進し始めた。

金髪の青年の背中に体を寄せて、二人乗りの自転車は風を切って街を走り抜ける。いつもなら車の中から見る景色が遮るものなく視界をどんどん過ぎ去っていく爽快感と、若さ漲る青年にこの手が触れているという緊張感と申し訳なさで敦子の心臓は小刻みに跳ねた。でも当の青年は何もかもお構いなしと言った風情で、時折バランスを崩すと「おっとっと」と声を上げ、敦子が体重をずらして平衡を保つと「セーフ!」と笑った。彼の背中からは楽しさみたいなものを感じられたし、息づかいからさっき見た無垢な笑顔が想像された。

店員は結局、敦子を家のすぐ近くまで送り届けた。敦子は丁寧に何度もお礼を言い、彼は整った顔に皺を寄せて「全然大丈夫ですよー」と恥ずかしそうに言って去った。時折立ち上がってペダルを漕ぐ彼の後ろ姿を眺めながら、敦子はかなり昔に失ってしまった若さという瑞々しい感触を思い出していた。それは、アイドルの解散スキャンダルくらいしか一喜一憂する出来事がない平凡で静かで面白味のない日常に突然、爽やかな風が吹き込み波が立った瞬間だった。

(つづく)

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