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コックの恋

コックのジョングクはもう2年近く、一人の女性に恋をしている。

2年前、ジョングクはまだこのビストロの見習いで、食器洗いとか野菜の下処理とかそんな程度のことしかやらせてもらえない半人前だった。料理人になりたければ専門学校へ通うのが普通の時代に、彼は高卒でこのビストロに飛び込んだ。父親がオーナーと知り合いだったことで実現したのだが、彼は当時千切りが何かもわからない体たらくだったのである。それでも、勉強も部活もさほど頑張らずにのほほんと生きてきた彼にとって、ここで労働することで初めて「生きる」ことが何かを知り、人生の目標も生まれ、瞳はいつも生き生きと光っていた。

手先が器用なのを見込まれ、シェフに簡単な前菜の盛り付けを任されるようになったある冬の始め、ホールに一人のバイトが加わった。

春香は近くの私大に通う大学1年生でジョングクと同い年だった。薄化粧に長い髪をひっつめにして、縁なしのメガネをかける春香はお世辞にもモテる雰囲気ではなかったが、賢そうな顔つきと、メガネの奥の澄んだ瞳、丁寧な話し方、そして笑顔になった時見える八重歯にいつの間にか淡い恋心を抱くようになった。

このビストロは古い建物の1階を改築したものだが、最初のプランニングを失敗したのかケチったのか、更衣室が一つしかなく、しかも異常に狭かった。厨房からよく見える、パントリー奥の扉付き1畳半が全スタッフ共有の更衣室で、そこにはロッカー以外にも物が雑多に置かれているため一人が着替えるスペースしかない。しかもその扉には鍵がついていなかった。だから、春香が出勤してその部屋で着替えている最中、ジョングクは心が落ち着かなかったし、誰かがその扉に近づけば、間違って開けてしまわないかとヒヤヒヤした。

ある日の昼休憩、ジョングクがいつも通り5脚並べた椅子の上に大きな体を何とか収めて仮眠していると誰かが肩を優しく叩き、目を開けるとそこに春香がいた。

「ごめんなさい、ちょっと、いいですか?」

春香は長椅子で眠るシェフやコック達を起こさないよう、ジョングクの顔のそばで囁くような声で話した。眠気は一気に冷めた。

「シェフに卵を買ってこいって言われたんですけど、今行ったら白いのと赤いのが売っていて。どっちがいいんですか?」
「あー、えっと、シェフは卵買ってこいって言っただけ?」
「はい」
「じゃあ、白でいいかな」
「そうですか。ごめんなさい、寝てるところ起こしてしまって」
「いいよ…あ、俺も一緒に行く?」
「え?」
「卵選び、手伝う?」
「あ、はい。いいんですか?」

ジョングクはコックコートの上にダウンを羽織り、春香の気配を背中に感じながら近くの個人商店へ向かった。二人一緒にいるというだけで彼の心臓は激しく鼓動した。

「今まで色とかあんまり気にせず買ってたけど、今日すごい色々考えちゃいました。助かりました、本当に」
「へぇ、ってことは自炊してんだ」
「いや、全然、料理ってほどのものじゃないんですけど」
「あのさ、同い年だしタメ口でいいよ」
「あ、はい。なんか慣れなくて」
「偉いね」
「いや、普段は全然、そんなじゃないんだけど」

春香が一人暮らしする家は隣駅からバスで10分ほどの場所にあるという。でも、交通費を浮かせるために店には自転車で通っているのだそうだ。見た目と同じく素朴で真面目な性格が垣間見え、ジョングクはさらに春香に好感を持った。

「夜遅い時とかさぁ、一人で怖くない?」
「うん、ちょっと怖いけど、すごいスピード出すので、私」
「はは、俺もそこそこ同じ方向なんだよね。片付けが早く終われば送ってあげられるんだけどなぁ」
「車で来てるんですか?」
「いや、俺もチャリ」
「ふふ、じゃあ、今度早く終わったら、一緒に帰りましょうか」

その後、一度だけ春香と一緒に帰ったことがある。新型感染症の感染者が日に日に増え世の中が戦々恐々とし始めた頃、1組しか客が来なかった夜だ。コック達は早めに片付けを終え、客が帰ってから比較的すぐに解放された。一足先に春香が退勤したのでがっかりしていたが、彼女は近くのコンビニに用があったらしく、駐輪場でばったり会えた。

「お腹空かない?」
「うーん、確かにちょっと」
「家帰ってから食べんの?」
「どうしよう…いっつも悩むんですよね、太っちゃうし」
「大丈夫でしょ。痩せてんだから」
「ううん、全然。私脱いだらヤバいんです」

そう言ってみてから恥ずかしそうにする春香を見たら心臓が爆発しそうになった。

「あそこの肉まん、食べたことある?マジ旨いの」
「ああ、あれ!ずっと気になってました!」

肉まんを二つ買い、桜も見られるし井の頭公園で食べようということになった。その夜の気温は5度くらいだったのに、嬉しくて寒さを忘れた。

夜の井の頭公園は街灯の光だけで仄暗いが、時折ピンク色の花びらが光を優しく反射させはらはらと落ちてくる。街灯近くのベンチに隣り合わせで腰掛けてみると、予想だにしなかった甘い空気が流れ、二人は緊張し言葉数が少なくなった。ここまで来る間に肉まんは冷たくなっていたが、その分厚い皮の中はまだほんのりと温かい。

「美味しい!やっぱりコンビニのとは全然違う!」
「でしょ?高いけどその価値あるんだよ」
「うん、コンビニの何回分か我慢してこっち買いたい」
「あ、ちょっと待ってて」

春香の鼻と頬が寒さで赤くなっていたから、ジョングクは自動販売機で温かいコーヒーとミルクティーを買った。

「ありがとうございます」
「うん、やっぱ、女の子はミルクティーか」
「ふふ、ミルクティー、好きなんですよね」
「うん」
「ジョングクさんって、優しいですよね」
「へ?あ、そう?」
「うん、かっこいいし、凄いモテそう」
「え?何言ってんの、全然だよ」
「そうですか?っていうか、うちの店、カッコいい人多いですよね」
「あぁ、マスターとかギャルソンとか?」
「うん。厨房の人は知らないと思うけど、ギャルソン、すっごいよくお客さんに連絡先聞かれてるんですよ」
「えー!マジ!そんなことあるんだ!」

肉まんを食べ終え自転車に乗ってしまうと、細い道を前後に並んで走るだけでまともに会話はできなかった。ただ、ジョングクは自分の視界の中に春香の後ろ姿があることにも、彼女が家のすぐ近くまで行っても変な反応をしなかったことにも満足した。高校時代の不良っぽい同級生とは全く違う春香の言葉遣いや反応は新鮮で特別に感じられ、ジョングクは家に帰ってからもドキドキが治らず眠れない夜を過ごした。

ただ、その夜を最後に春香には会えなくなった。

数週間続いていた客足の減少と緊急事態宣言の発令を受け、バイトのシフトは全てキャンセル。それきりだった。あの夜に連絡先を聞いておけば...。ジョングクは何度も悔やんだ。

——

あの日から1年以上が過ぎた秋、オーナーは通常営業を再開することを発表した。足りない人手はバイトで補うという。ギャルソンにバイトの面接をするのか聞いてみたところ「春香ちゃんが来れそうだからお願いした」とのことだった。胸が高鳴った。

大学3年生の春香はメガネではなくコンタクトで、下ろした髪にウェーブがかかっていた。あの時の春香より確実に大人びていて、直感で「あぁ、遅かった」と思った。この自分勝手な思い込みから、ジョングクはずっと会いたかったくせにロクな挨拶もせず、目もあまり合わせなかった。

まかないの時間、色っぽくなった春香に話題が集中した。オーナーが「やー!見違えたぞ!何があった!」と聞けば、ギャルソンは「春香ちゃんは最初見た時から可愛かった」と言い、シェフは「あんまりこの話続けたらセクハラやぞ」と注意した。皆が笑い合っている間もジョングクは話題に入らず、ただ黙々と食べた。

「大変だったやろ。大学、行けてたん?」
「いえ、ずっとリモートです。学費はほぼそのままなのに」
「やー、俺たち飲食業が一番辛いって思ってたけど、大学生もなかなかだな」
「はい、バイトもできないし、ずっと引きこもりみたいで。だから連絡いただいた時、とっても嬉しかったです」

シェフや先輩コックが昼休みに入る中、ジョングクは一人片付けをしていた。そこに春香がやって来た。

「今日のまかない、ジョングクさんが作ったって。すごい美味しかったです」
「ああ、そう?」
「髪の色が違うから一瞬いなくなったのかと思っちゃった」
「ああ、そっか」

あの頃に比べ話し上手な春香に寂しさを覚えつつも、自分にわざわざ話しかけてくれたことが嬉しくてこぼれた笑顔を俯いて隠した。

「よく思い出して買いに来てたんですよ、あの肉まん」
「ああ、あれね」
「ジョングクさんもまだよく食べる?」
「うん、たまにね」

ジョングクがいつまでもつれないので、春香は話も途中に更衣室からバッグを取り出し「ちょっと出かけてきます」と言って外へ出た。

2年近く想い続けていたのになんてバカなのかと、ジョングクは不器用な自分を責めた。

——

週に1、2回来る春香とまともに会話もできないまま時は過ぎ、井の頭公園を鮮やかに彩っていた木々はいつの間にか箒のようになっていた。

クリスマス数日前のある日、ジョングクは吉祥寺駅のホームで大学生の群れの中に春香を見つけた。春香はあの頃と同じひっつめ髪のメガネ姿だった。ぼーっと見ていたら、春香が気付き、会釈して近づいてきた。

「こんばんは」
「おう」
「今日はJRなんですね」
「朝、雨降ってたからさ」
「ですよね…」

少し離れたところで春香の連れがこちらを伺っているので二人はどうしてもよそよそしくなってしまう。が、春香はあちらに戻ろうとせずそのまま一緒に車両に乗った。

「今日はメガネなんだね」
「あ、はい。いつもメガネなんです」
「うちではコンタクトじゃん」
「ふふ、そうですよね」

春香はなぜか恥ずかしそうにしていた。

「久しぶりのビストロバイトだったから…。だから今日この状態を見られてちょっと残念」

そう言い残し、春香は下車した。
ジョングクはまだ若く、女心がよくわかっていなかった。だから、春香のこの言葉も、家に帰りシャワーを浴びて寝床に入るまで何度も反芻してやっとじわじわ意味がわかってきた気がした。

——

春香の次のシフトは土曜だった。ジョングクは毎日、春香への告白について思い悩んだ。言うべきか、言わぬべきか。いつ、どこで、何と言うか。そればかり考えた。

土曜、昼休憩に入り一人厨房で洗い物をしていると春香がやって来た。春香が思いの外早々と更衣室に入ってしまったので、ジョングクは急いで濡れた手を拭き、更衣室のドア前で待機した。

「わ!びっくりした」
「おう、ごめん」
「…?」
「あのさ…」

頭の中は真っ白だった。用意してきた長ったらしく不自然なデートの誘い文句も、全て、忘れてしまった。

それで、彼は彼女を狭い更衣室へ押しやり、戸を閉めた。

密室に二人の呼吸音だけが響いている。背の低い彼女の顔は丁度彼の胸あたりにあり、表情を伺うこともできない。

「あの…えっと…」
「…」
「今日さ、一緒に帰れる?」
「え...?」
「いや、あの…」
「うん。先に終わったら、どっか近くで待ってますね」
「お、おう…」
「…もう、終わりですか?」
「へ?」
「外に出ても大丈夫?」
「うん、あ、連絡先…」

密室から出て二人は同時に深呼吸し、顔を見合わせ笑った。連絡先を交換しているとシェフが厨房前を通り過ぎた。

「ジョングガー、まだ洗いもん残ってるでー」
「はいっ!今やります!」

元気で爽やかな声がビストロ中に響き渡った。

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