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序章

吉祥寺駅西口から大通りを越え、レンガが敷き詰められた通りを西へ向かうと一際目立つブルーの建物が見えてくる。古い建物をリノベーションしたのだろう、2階より上は昭和のような趣であるが、1階の店舗は垢抜けて個性的な印象で思わず立ち寄りたくなる雰囲気がある。

La Jiboraraという名前のこの店、ミシュランで1つ星を獲得した人気のビストロだ。営業はランチが11時半からだが、スタッフの出勤時刻はバラバラである。

朝一番に店に入るのは、ここのオーナーであるソクジン。スタッフにはジンさんと呼ばれている。ほぼ毎日、早朝に新鮮な魚を仕入れては店に運び、すぐ近くの自宅へ寝に帰る。一眠りした後に店に来る時間はまちまちである。全く顔を出さない日すらある。

オーナーと入れ替わるように出勤するのは下っ端コックのジョングク。見習いとしてここで働き始めてもう3年、つい最近スープの担当を任せられたばかりだ。毎日自転車でやって来て、厨房の掃除、食材の整理や仕込みを行う。

他のコックも揃い始める頃、ホールスタッフのテヒョンが不機嫌にダルそうに現れる。彼は周囲に自分を「ギャルソン」と呼ばせておりその仕事に誇りを持っているが、朝が苦手なのか大体いつも機嫌が悪い。今日も予約を確認したり店内を歩き回ったりと忙しそうに振る舞っているが特に何かする訳ではない。

毎日バイクで出勤し、革ジャンのポケットに両手を入れてけだるそうに現れるのはこの店のシェフ、ユンギだ。コックたちが威勢良く挨拶するのを軽くあしらい、ささっと着替えると無言で仕込みのチェックをする。彼が厨房に入った途端、停電していた店にやっと電気が通ったかのように一気に緊張感が満ちる。

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客が入ると店は活気で溢れる。耳心地の良い音楽と客が談笑する声は暖かい空気を作り出し、ホールはなんとも言えない落ち着ける空間となる。これに対し、厨房は戦場のような雰囲気だ。だからホールスタッフも戦火に油を注がないよう適切な態度を取らなければならない。もし料理を沢山残す客がいればシェフに気付かれないよう皿の上の残りものをゴミ箱に捨てあたかも完食したかのように見せたりする。ラストオーダー時間ギリギリに客を入店させた場合はそれなりの説明が必要だ。シェフを怒らせないよう、厨房もホールも細心の注意を払う。

そして今日も、ランチタイムのラストオーダー5分前にいつもの常連客がゆったりと現れた。多い時で週に二度ほど来店する男、ジミンである。常連とは言え愛想が悪く言葉をほぼ発さないから彼が何者であるかは誰も知らない。わかっているのは、いつも女連れであること、一度として同じ女性を連れてこないこと、強烈な色気を身にまとっていること、財布を持たないらしくいつもポケットからアメックスのブラックカードを出して支払いすることだ。

この常連客が来店する日はきまってシェフの機嫌が悪い。昼休憩に入る時間が遅れるからである。今日も常連客に最後のメインを作り終えてすぐ、シェフは不機嫌そうに裏口へ出てタバコを吸った。そしてその間、ジョングクはスタッフ全員のまかないを用意する。

ジョングクがまかないを担当するようになってからスタッフの昼休憩の満足度は上がった。彼は料理の才能がある、とここにいる全員が思っており、それを知らないのはジョングク本人のみだ。「あいつは褒めたらすぐいい気になって満足するタイプやから誰も何も言うな」とシェフからのお達しがあったのだ。シェフは多分、ジョングクの才能を最も理解している。

昼休憩頃にガタガタと物音がしたら、それは卸の配達人が来た合図である。この店の営業と配達を担当しているナムジュンは仕事はできるがとにかく器用さが異常に足りない。今日も力任せに運んだのかダンボールの側面にいくつも凹みが出来ている。コックと品物の確認を行いギャルソンと世間話をして帰るだけなのに毎度店に好印象を残して行くのは、彼の優れた言葉運びのせいなのか、可愛らしいエクボのせいなのか。

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ディナーの時間になると店の雰囲気はまたガラリと変わる。ギャルソンテヒョンの強いこだわりから、店の照明はかなり明度を控えており、各テーブルを淡く照らすことで各席に独立した空間を生み出している。

この店の良席は窓側や壁側のボックス席だ。しかし、満員の時にしか使わない、厨房とパントリーに近い席を好んで指定する客がいる。駅南側にフレンチレストランを経営するホソク氏だ。シェフとは古くからの知人らしく、それで厨房の音が漏れ聞こえるこの席を選ぶのだろうか。既に多店舗を経営し、レシピ本や時にテレビにも出演するほどの人気シェフが何故この店を定期的に訪れるのか、真相を知る者はいない。

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さて。

これから展開されるこの小編は、パンデミックに翻弄されたビストロの苦労話でも、商売繁盛の成功話でも、ユンギシェフが生み出す芸術的な料理の話でもなく、シンプルに、恋の話である。このビストロを行き来する、ここ数年特段のトキメキもなく暮らしてきた7人の男たちの恋や愛の話。

まず最初は、この2年ほど、ずっと一人片思いに苦しんだ不器用な男の話から始めよう。

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