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夕映えの恋 5

二人分のミルクセーキがなくなると小さなテーブルを挟んで二人が向かい合い続ける理由はなくなり、敦子は腕時計を確認すると「私、そろそろ」と鞄を手に取った。テーブルの横でコートを着る敦子を店員はしばらく見上げていたが、すぐに「僕も」と立ち上がり敦子の後についた。

外はもう雨が降り始めていて、空から真っ直ぐに数えきれない雫が糸を引くように落ちている。

「わぁ、雨だぁ」

店員の言い方はまるで雨を喜んでいるようで、敦子は傘を開こうとした手を止めて隣にいる店員を見上げた。彼は目をキラキラさせて空を見ていて、その睫毛の長さと顔の造形の美しさに敦子は一瞬息を呑んだ。

「あの、駅、ですよね?」
「はい」
「傘あるから、一緒に?」
「はいっ」

店員は嬉しそうに笑って敦子が広げた傘の中に入るとすぐに傘の柄を敦子から取り上げた。しとしとと落ちる雨の音に、傘の上でトントンと跳ねる雨の音が加わる。二人の歩く速度はゆっくりで、息を合わせたようにぴったりだ。時折店員の腕が敦子の肩に触れると、いくら一回り以上歳下とは言え男と相合傘をしているというその状況に敦子の心はときめいた。

「お客さん、今度はいつ来ますか?」
「お店に?」
「はい」
「うーん、それはわからないかなぁ。主婦と言ってもね、案外忙しいのよ。人付き合いだとか、犬を探しに行くだとか」
「犬を探しに行くんですか?」

敦子は息子が犬を飼いたがっていることを少し愚痴っぽく話し、店員はそれを前のめりになって聞いた。

「犬を探したいなら僕いいところ知ってます。一緒に行きましょう」
「あぁ…じゃあ場所だけ教えてもらっ…」
「知り合いなんです、そのブリーダー。ちょっと遠いけど、往復二時間あれば行けるから朝出れば多分昼過ぎには戻れます」
「あの…有難いんだけどね、そんなにしてくれなくてもいいのよ」
「僕は大丈夫です。ワンちゃんも見たいし。あ、勿論お客さんが嫌じゃなければ、ですけど」

敦子はしばし考え、先ほど東京周辺のブリーダーを検索した時に表示された膨大な情報量を思い出し、彼の提案に乗るのも賢明かもしれないと思った。それで二人は翌週の月曜日に敦子の車で、知り合いのブリーダーがいる千葉へ行こうということになった。

「じゃあ僕、この間自転車で送った時の場所で待ってますね」
「うん、ありがとう。あ、そうだ。連絡先」
「あ、じゃあ僕のLINEを」

店員が差し出したQRコードを読み取ると、敦子のスマホ画面には海で撮影したらしいアイコンと「テヒョン」の文字が表れた。

「名前、テヒョン、っていうの?」
「んー、はい。お父さんが韓国人なので」
「そうなんだ。生まれは…」
「こっち。日本です、ずっと」
「そうよね、日本語ペラペラだもんね」
「逆に韓国語はそんなにはできません」
「そうなんだ。韓国にはあまり行かない?」
「時々は行きます。あっちにおばあちゃんがいるので」
「そう。いいね」
「なにが?」
「なんていうか、羨ましい。二つの文化に身を置いている感じが」
「んー、どっちも中途半端なんですけどね」

店員は敦子を見て優しく微笑み、自分のスマホ画面に目を落とした。

「敦子さん、っていうんですね」
「テヒョンくんのお友達にはいないでしょ、こんな古臭い名前」
「素敵な名前です、敦子、さん」

二人は駅に着き、店員は思いの外丁寧に傘を閉じた。忙しなく行き交う人混みの中で二人はまだ何か言い残したことがあるような感情に引かれ通路の隅に寄った。

「テヒョンくんってさ、いつもこんな感じ?」
「え?」
「こんな風にすぐに人と仲良くなるの?なんていうか…人との距離感、っていうのかな」
「あー、そうかもしれないです。けど、誰にでもする訳じゃないですよ。お客さん、いや、敦子さんが優しくて話しやすいから」
「ふふ。でもテヒョンくんのそういうところは長所だね。なかなかみんなそうやって人付き合いってできないから。私すごいと思う」

店員はまた恥ずかしそうに俯いた。敦子はもう既にこの店員のことがかなり気に入っていた。自分の息子もこの店員のように美しく、人懐っこく、人に好かれる青年に育ってほしいと、そういう親しみと称賛が合わさったような感情を抱いていた。

「今日はもう終わりなの?」
「いえ、夕方から先輩に会いに行きます。OB訪問ってやつです」
「そう。あのねテヒョンくん、私ひとつだけどうしても気になってたことがあって、言ってもいいかな?」
「はい…」
「ネクタイがね、多分結び方が間違ってる」

敦子は持っていた傘を店員に渡すと彼の首元にだらしなく垂れたネクタイを完全に解いて、説明を加えながらまた綺麗に結び直した。そしていつもの癖で、結び終えた後に両手を店員の胸元にトンと置いた。

「ネクタイは男の顔だからね。しっかり綺麗に結んだ方がいいよ」
「…なんか…いいっすね」
「ん?」
「僕も結婚したら奥さんにネクタイ結んでもらえるのかな。羨ましいな、敦子さんの旦那さん」

・・・

その日、敦子は何度も店員のことを思い出した。そしていくつかのやりとりを思い出しては一人笑った。恋なんていう感情は敦子にとってもうだいぶ昔に忘れてしまったものだったし、あの若い青年に対してそんな感情を持ち得るはずがないと思っていた。だから余計に、この出会いには自分の人生にとって何か特別な意味があるのではないかと感じるのであった。

(つづく)

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